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石ころ

献金のこと

 今週、政治があまりに酷いから祈ろうと言われていた。でも、私には何をどのように祈ればよいのかはっきりしなくて、祈ってはいても確信がない。

「彼らが、『私たちをさばく王を与えてください。』と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。 主はサムエルに仰せられた。『この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。』(1サムエル8:6)
を思い出して、私たちの王の王主の主は、ただ、おひとりではないか、終わり。なんて思ってしまう。

 政治献金という汚職の話題は、昔から少しも変わらないパターンの繰り返し。すべてを聞くよりうんざりが先立つ。
政治家に対して、我々のために働けとお金が支払われる。政治家から申し込んでも、業者から申し込んでも同じことで、政治という彼らの働きが買い取られることだと思う。お金は支払った業者から決して離れることはなく、受け取った者に自由はなくなり、政治家は鵜飼いの鵜となり、給料として支払われる国民の税金の詐欺師になり下がるということ。

 教会で捧げられる献金は、純粋にイエスさまに感謝と喜びによって捧げられるもの。それは捧げた瞬間に主に渡り、捧げた者には感謝と喜びの記憶だけが残る。でも、教会という組織の運営のためや、牧師に捧げられ、あるいは、自己の夢や計画のために捧げられることがある。それらはいつまでも見張られ数え続けられる。私にはそれは政治献金とあまり変わりがないように思える。


「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(Ⅱコリント8:2)

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