神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。(ピリピ3:3)
それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ3:8~9)
人間的な誇りとなる多くのものを持っていたパウロ。しかし、それらを塵芥と捨てた故に、彼のすべてのものは主の御前に価値あるものとなったのである。
パウロが捨てたものを拾ろうようなキリスト者になってはならない。彼が涙を持って、
「兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(ピリピ3:17)
このように叫んでいるのは「間違わないでくれ」という叫びである。
血筋にも行動力にも学問においても、なんら申し分のないパウロであれば、彼の人間的な力によって、その働きが成ったと勘違いをする者が現れることを危惧したからであろう。
御霊に寄らなければ、人は人間的なものを用いて主を知ろとし、主を伝えようとするからである。
私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。(ピリピ3:5~6)
パウロは、捨てたからこそ、これらを並べ立てたのであって、主に在っては、その陳列台に並べられているものの無価値であることを知らせるためである。
もし、パウロ発のそれらが何かの価値を持つなら、その分だけ福音が損なわれると告白しているのである。
パウロの純粋な信仰が伺われる。それは、彼が聖霊によってイエス様をよく知っていたからであり、聖霊に寄り頼んでイエス様のように生きようとしたからであると思う。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
(ピリピ2:6~8)
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