医大では、血液検査の結果が出るのをしばらく待って呼ばれた。
「腎臓の結果も悪くないので、このまま続けて薬を飲んでください。痛みがなくなったのはそれだけ小さくなったことなので良かったです。ぎりぎり間に合いましたね。」と今まで見たこともない医師の笑顔で言われた。
主人はその笑顔で一変に元気になった。人の顔色がとても気になる人だから、今までのぶっきらぼうな感じが不安だったらしい・・。その夜は豚しゃぶを5枚も食べた。
しかし・・私は再々言われる、ぎりぎりという言葉が引っかかるのだけれど・・。
お風呂から出た主人は「それでは休ませて頂きます。今日はありがとう。」なんてふざけながら言う・・それも毎日。その時たいがい私もふざけるのだけれど、主人にそのような余裕があることが本当に感謝なのだ。
そうして万事に大雑把な私は教えられる。いくら親しくてもきちんと伝えることの大切さを・・。
でも、昨夜は失敗をした。牛乳を飲んだ直後だったのに、大丈夫だろうと下剤を勧めてしまった。忘れては困ると思ったこともあったのだけれど、夜中にお腹が痛くなって眠れなかったという。朝もかなり憔悴していた。原因が下剤とわかった少し安心していたけれど・・。
数日前から、日々の介護の詳細を記録するようにしているが、本当に細やかに基本に忠実でなければ・・と今朝は反省しきり。そのせいで主人は朝食はあまり食べられなかった。
頑張らなくても良いけれど細やかであることは重要なこと、それは私の一番苦手なことだけれど・・。
妹が昨夜の電話で「ひとりで負わないで、助けが要るときは何でも言ってね。」と言ってくれた。「まあ、それほど負ってはいないから大丈夫だよ。あんたこそ健康に気をつけてね、支え棒の心配まで増えたら困るから・・」なんて憎まれ口を叩いたけれど、何となく今まであった隙間が一気に縮まったようで、「ふ~ん、そういうことか・・」って、ちらっとイエス様のご計画を垣間見たような気がした。
彼女もイエス様の救いを必要としている。しかも年が年だからそれほど時間がないのだ。
人は苦しみの中で産まれ来て、それぞれの死を味わうことが決められている。誰も逃れられない事実なのだ。神さまはそのようには造られなかったのだけれど、それはアダム以来の罪の報いであるから・・。
キリストがもう一度来てくださって天に引き上げてくださる約束の、再臨にはその苦しみはないだろう・・
けれど今は、心から「主よ。早く来てください」と祈れずにいる。「もう少し待ってください。」としか祈れない。「私の大切な者が、信仰に目覚めるまで待って居てください」と言う切ない祈りになってしまう。
エリヤだけは死ぬことなく天にのぼって行ったけれど・・ 、イエス様は人の罪の報いである死を極限まで味わってくださった。その主を思い出すとき、安らかに過ぎることができるのかもしれない・・。
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