石ころ

モーセの執り成しによって生かされた40年 ②(民数記14章)

 

しかし全会衆は、二人を石で打ち殺そうと言い出した。すると、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。(10)

 

モーセを攻撃することは神を攻撃することである。モーセは神のことばを伝え、命じられるままに神の働きをしている時、主に従う者の敵と戦われるのは主である。

世の空気を読む必要もなく、人の顔色を窺って言葉を選ぶこともしないのは、神の御救いを伝えるためであり、主に信頼して真っ直ぐにみことばを語ることは、キリストから発する真実な愛である。

 

主はモーセに言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じようとしないのか。
わたしは彼らを疫病で打ち、ゆずりの地を剥奪する。しかし、わたしはあなたを彼らよりも強く大いなる国民にする。」(11~12)

 

神に従わない者は神の敵、みことばに背くことは神を敵に回すことである。まして、多くの御わざを目の当たりにして、幾度も危機から守れらながら、経験した恵みをあっさりと忘れて逆らう時、神に選ばれた民として、恵みや栄光を味わうことはもうない。
それゆえ、神はモーセによってすべてを新しくしようとされた。

 

「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。」(マタイ3:9)

 

神には何時でも、すべてを新しく造り変えることが出来る。
しかし悟りの無い私たちを、あらゆる忍耐を持ってすべての弱さや、裏切りや、愚かさによる罪の結果を御子キリストに負わせられた。

 

キリストは罪の無を知らない方であったが、死刑の十字架を通り、黄泉にまで下られ、その従順によってよみがえり、今神の右の座に居られる。救った一人ひとりを今も弁護し、父なる神に執り成していてくださるのである。

 

また、聖霊を遣わして弱い者のうちに住まわせ、神の宮として三位一体の神が居て下さり、罪とその結果から解放して、みこころに導き、キリストの平安に守っていてくださるのである。

 

彼らがみことばを離れ、いのちのことばを否定して、自分の肉に戻るなら、もう、救いは何処にも無い。彼らの不信仰は神のご計画を成さず、神の栄光を現わすことはなく、恵みを受けない命は終わるのだ。

 

モーセは主に言った。「エジプトは、あなたが御力によって、自分たちのうちからこの民を導き出されたことを聞いて、
この地の住民に告げるでしょう。事実、住民たちは聞いています。あなた、主がこの民のうちにおられ、あなた、主が目の当たりにご自身を現されること、またあなたの雲が彼らの上に立ち、あなたが昼は雲の柱、夜は火の柱の内にあって、彼らの前を歩んでおられることを。(13~14)

 

神の御わざは、良くも悪くもその民によって証される。エジプトで成された奇跡を聞いた人々は、その神が味方であるか敵であるかと注目している。主の奇しい御わざを受けた者には、大きな責任があるのだ。

 

もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。
『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。」(15~16)

 

この時のモーセの言葉は、神の側に立っての言葉である。決して不信仰な民の側に立って、神を言いくるめようとしているのではない。彼は約束の神の義によって、異議を申し立てているのである。

すべての人類の造り主として、すべての人の救いであられる神のことばとして、みことばのご真実を守ろうとしたのである。

 

この時、神は有無を言わせず滅ぼすことを為さらずに、友と語るようにモーセと顔と顔を合わせて語られたのは、イスラエルの民への愛によることであろう。

 

どうか今、あなたが語られたように、わが主の大きな力を現してください。あなたは言われました。
「主は怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰し、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす」と。
この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」(17~19)

 

私たちが神に執り成す時に必要なことは、聖霊に導かれて神の願われる言葉を語り、神の側に立って願うことである。そこに神の義は成るようにと、主に信頼して願い事を申し上げるのである。

 

しかし、それはあまりにも困難な時があり、すべての思いを明け渡しての異言の祈りとなる。
モーセと神の間には、コミュニケーションの困難は何も無かったであろう。神は霊でありモーセも霊で応答しただろうから。モーセはそれを言語に翻訳して、イスラエルに伝えたのだろう。

 

モーセの執り成しによって反逆の人々に命の猶予が与えられ、たまわった40年によって、その子孫に命が受け継がれた。それは神とモーセの関係に在って成った、主の忍耐によることである。

 

「父の咎を子に報い三代四代にまで及ぼす」と言われたみことばは、此処では、子どもたちを荒野で訓練して神を経験させ、何もない荒野で養い育てて、イスラエルの祝福としてくださった。

 

神は義の神であり愛の神である。人は神の栄光を現わすために造られた。それゆえ、主はあらゆる良いものを備え、みことばによって導きつつ、祝福しようと待っておられる。聴き従う聖さによって守り、滅びることのないいのちを共に生きるために。


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