息子を送り出した玄関で、「ああ、月が綺麗だ!」って声につられて表に出た。
藍色一色に明け初めし空間に、ぽっかりと金色の月が浮かんでいた。
「ああ、もうこんなに明るくなっていたんだ・・」
ついこの間までは、自転車の頼りない明かりが、ゆらゆらと暗い道に消えていったのだが・・。
早起きのうぐいすが遠くの方で鳴いている。
ほのかな明かりにすべてが包まれる中、白い花びらのような雪が、ヒラヒラ、ヒラヒラと落ちてきた。穏やかにフワフワと藍の中を舞いつつ・・寒さも忘れて、夢かうつつかと立ち尽くした早春の朝。
マルコ9章
弟子たちは、イエスさまが十字架のことを話されても理解出来ず、道々誰が一番偉いかと論じ合っていた。彼らはそのことの恥ずかしさを知っていたのだが・・。
「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(マルコ9:37)
今日まで私は、幼子を頭に描いてしまっていたけれど、今、霊の子供のことであることに気づいた。差し迫った問題を抱えていたからか・・。
先日、信仰はタラントだと気づいて、タラントなら主から与えられたものであり、信仰は人によって違うのは当然なのだと納得したのだった。
主は、与えたタラントに応じて働くことを喜ばれるのであって、完全に個人的なことで他と比べることではない。
5タラント与えられた者は、2タラント与えられた者よりも偉いわけでない。ただ主のご計画が違うだけのことなのだから・・。
誇ることは、弟子がイエスさまに言えなかったような恥ずかしいこと。
しかし、信仰によって主をより多く経験出来るのだから、感謝はだれよりも深いだろう。主に深く感謝する者は、誰にもましてイエスさまに似ること、謙ることを学ぶだろう・・。
イエスさまは、「小さい者たちをつまずかせる者は石臼を首に結わえ付けられて、海に投げ込まれた方がまし」だと言われた。
なんと厳しい言い方だろう。
誇る手を切り捨てろと、誇る足を切り捨てろと、目をえぐり出せと・・。
それほどにつまずきを与える者に厳しいことは、小さい者へのイエスさまの愛によるのだ。
また、誇って滅び行く者を惜しまれるからなのだ。
仲間ではなく、好みに合わない者の働きを封じるヨハネに、イエスさまは「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」とおっしゃった。
イエスさまの懐は私たちの思いを超えてはるかに深いのだろう・・イエスさまの愛の深さを私はまだ悟れないでいる。
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17~19)
「アーメン。主よ。私を憐れんで下さい。」
「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」
小さな者を受け入れて共に暮らしなさいと言われる。イエスさまが私たちを一方的にあがなって、反対しない者を無条件で受け入れて下さった事実の中にいるのだから・・。
それは、気ままな者に忍耐を要し、わきまえのない者に謙ることを要求され、すべてイエスさまの愛を頂かないと出来ないことだけれど・・。
主は、朝にうっとりと美しいものを見せ、昼に厳しい事実を教えてくださる。そう、これは十字架へ向かう行列なのだから。
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