すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」(マタイ15:22)
しかし、「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」とある。つまり無視。
今回この箇所を読んでいて、自分の読み方の間違いに気が付いた。イエスさまがこの女にすぐには答えられなかったことは、実に正常なことなのだと・・。
選んだ者をのみ恵もうと、私を無視なさろうと、それは100パーセント主のご自由なのだ。
女はそれを認めて、なお叫びつつ憐れみを乞うてひれ伏したのだった。
すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(マタイ15:26~27)
女は自分の娘を憐れみイエスさまにすがりついた。私たちの祈りも似たり寄ったり・・。この女の何処が立派なのか・・。母が子を憐れむのは自分の身を愛おしむことと同じ。叫びつつ付いて行くこと、祈り続けることの何が立派なのか・・。他に方法がないだけのこと。
主のご計画だけが成るのは当然で、人がどうしてそれに文句を言うことができよう。そう、すべての人類は何一つとして要求する権利など持っていない。ただ、神の憐れみにすがるだけなのだ。
マタイでは、「ああ、あなたの信仰は立派です。その願い通りになるように。すると、彼女の娘はその時から直った。」とある。
でもマルコにはほめ言葉はない。書かなかったマルコの気持ちがわかる。ほめるられたのは彼女には拠らない。イエスさまの一方的な評価だから・・。
ヘブル11章には多くの信仰が評価され居る。けれども信仰さえも決して人から出たものではない。それは主にタラントとして賜ったものなのだから・・。
ただ、ただ、そのような信仰を人に賜ったことにひれ伏のみ。そのような信仰を手取り足取り育み導いて下さったのだから・・。
霊の目が開かれると、まず自分は何一つとして神に報いられるに価しない者であると知るようになる。
イエスさまの評価は、女がそのことをわきまえていたことによるのだと思う。
宗教をしていると勘違いをしてしまう。祈りはきかれるべきだと何処かで勘違いをしてしまう。
献金、そもそも主のものであると書いてある。奉仕、その健康を守られたのは主、むしろ忍耐していて下さったのではないか・・。
伝道、本当にそれが主から出たものなら、すべて備えられた中で、刈り取りの喜びを味あわせて頂いたのだから感謝あるのみ。
でも人は、それらの行為をどんなに心の底に押し込めようとしても、その思いは根底に存在して、何か事があればその上に立って祈っている。
それくらいなら何もしない方がよい。なにもしなければ、この女のようにひれ伏すことができるから。
主の無視に服して「アーメン」と言える。
主の拒否に服して「アーメン」と言える。
小犬と言われたけれど、時に犬のほうが忠実である。
人の価値は、ただ、一方的な神様の選びにすぎない。
「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」(ローマ9:15)
神様の一方通行の約束によって、救いを受けた者、憐れみ、恵みを受けている者である事を覚えていたい。
どんなに祝福して下さったとしても、そのことをわきまえていなければならない。なに一つとして、私には要求する権利などないことを・・。
この話をしているとき、カオリンさんは「十字架!」って言われた。
ああ、そうだ!
イエスさまが十字架で受けたものは、父の無視。父の拒否。
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