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石ころ

サウルの悲劇

「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」
サウルはこのように王として選ばれた。
しかし、神様に選ばれた人は神様に聞き従うことをもって、初めてその役割を果たすことが出来る。

彼自身は荷物の間に隠れてしまうような、気の小さなただの人間に過ぎなかった。
彼は王となったとき民が離れて行くことを恐れて、自分で全焼のいけにえを捧げた。
その時、彼は神様を恐れることを捨てて、王座を偶像としてしまった。
そのようにして守った座は、人を支配する王座のように見えて、実は人を恐れ、自由をなくしてしまっている事に彼は気づいていない。

ヨナタンの信仰は、
「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(Ⅰサムエル14:6)とたった二人で敵陣に乗り込んでいって、結果イスラエルに勝利を収めさせることになった。それは、人に頼ろうとするサウルとは真逆だ。

人を恐れると神を恐れることができなくなる。それは神様を恐れる自由を失うことであって、すべての自由を失ってしまうことでもある。
神を恐れる者は人を恐れない。それは大きな自由を獲得することでもある。それを守られるのは主だから。

サウルは神様の祝福を台無しにしてしまって、神様は彼を選んだことを悔まれる。
神様に御目を掛けられながら、こんな悲劇的な結末だけは絶対に味わいたくないと思う。

神様を知らないゆえに的外れな誓いを立てさせて、兵士に食事を取らせずに弱らせたり、自分の子ヨナタンを命の危険にさらしたり、宗教的であっても無意味な行為を強いている。それらは彼の単なる思いつきであり、神様のあずかり知らぬことだ。

神様の祝福である美味しい密をなめさせなかったのだから、むしろ逆らってさえいる。
密はみことばを思わせる・・。そういえば、自由にみことばを読むことを制されたことがあったけ・・ずっと昔だけれど・・。


 サウルはアマレクとの戦いでも、民が惜しんだからと聖絶のものを残した。最上の物を惜しんで残し、それをいけにえとして捧げると言うが、その汚れたものを用いるという神経には言葉を失う。

聖さとは神様に従った結果であり、みこころに背いたものはどんなに見た目に素晴らしく見えても汚れている。
少しでも神を恐れるなら決して言わぬ偽りを、平気で口にすることが出来る時は、神とはあまりに遠い存在。

聖絶とは恐ろしいことのようだけれど、主に従うときに色々なかたちで、私たちキリスト者はきよめ分かたれて、世には死んで、新しくされるために通るところだと思う。

まず、父を葬ることを願い出て退けられた弟子が居たけれど、主に従うときはその場で直ちにであって、ペテロ達も生きるすべであった網を捨てて従ったし、マタイも取税人の特権を捨てて付いて行ったのだった。
主が十字架で、父なる神に捨てられて成し遂げて下さった御救いを頂くのだから。


「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(Ⅰサムエル15:22~23)

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