イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、また、鳩を売る者に言われた。
「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:13~19)
イエスさまがひっくり返されたものは、決して救われる事のない形骸化した宗教。
その時の宮の様子は、罪の痛みをもって、神の聖さに渇き礼拝をする場所というよりも、宗教的な行為によって安心を買い取るような、救いの形骸化がそこにあったのだと思う。
生け贄を売る者にはそこは商売の場であり、買う者には安易で便利な場所。互いに益があって、いつしかそれは当たり前のこととなり、それが形となり、それが宗教となっていたのだろう。
イエスさまはその偽りをひっくり返して、ご自身の体という神殿を、神の御前に生け贄とされ、十字架の死によって、すべての罪の完全なあがないを成し遂げてくださった。
そして三日目によみがえってくださり、私たち主の十字架のあがないを信じる者を、罪の代価を完全に支払われたきよい者、神の聖霊の宮としてくださった。
それでもなを、人は人に過ぎないけれど、主の血潮に覆われている者はきよい神の宮であり、その事実の中で、自分自身を捧げることを願う人生こそが、真の捧げものなのだと思う。
「あなたがたは何を求めているのですか。」(ヨハネ1:38)
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