主はモーセに告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、(1~2)
ナジル人は願いを持って神に誓いを立てて、身を聖別する人々のようであるが、神はその願いを聞き入れられて、モーセに命じられたのだ。
人間は自分の願いを叶えてもらうための方法として、断食をしたり、痛みや苦難を我慢することがあるが、目的が人の目に良いことであっても、そこに神の関わりがないなら意味はないだろう。捧げものが、神の求めておられるものでなければ的外れだから・・。
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。(ホセ6:6)
その人は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。また、ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも、干したものも食べてはならない。(3)
キリスト者は、聖霊の導きによって成すべきことを知る。神は良い方であり良いことを計画していてくださるが、それは、従順という私たちの同意によって成ることである。
昨日までは許されていることが、今日は捧げることを示されることもあり、日々主に聴くことが必要である。聖霊の導きに拠らなければならないのは、人の頑張りでは、完成に至る主の道を見い出せないのである。
卑近な例で申し訳ないが、私は以前ワインなどを飲むことが日常的であった。一日が終わってほっこりと緊張を解き、体が柔らかくなる時を楽しんでいたが、ある日、それが主に聴き続けることを邪魔をしていると知って止めた。
主に促されて止めたものは、ソースにでもしようと勿体なく思って置いていても、飲みたくなることは無い。聖霊の働きによって、従順の決心が守られているのだと思う。まあ、あまりに古くなったので捨てよう。
キリスト者には助け主がいて下さる。それは、旧約の人々には無かった守りと、助けの中に居るのだ。まことに今は恵みの日である。
主のものとして身を聖別している間は、死人のところに入って行ってはならない。
父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らとの関わりで身を汚してはならない。彼の頭には神への聖別のしるしがあるからである。(6~7)
ナジル人は、愛する家族の最後である死に関わることも赦されなかった。この厳しさは、神を誰よりも愛すべきことを現わしている。
神に従順であろうとする時に、躓きを与えるのが家族への愛であることは事実である。これは愛ではなく執着かもしれないが・・。
家族の生も死も、主に捧げることがナジル人の条件なのであろう。
ナジル人としての聖別の全期間、彼は主に対して聖なるものである。
だれかが突然、彼のそばで死んで、その聖別された頭を汚した場合には、身をきよめる日に頭を剃る。すなわち七日目に剃る。(8~9)
偶然の死に遭遇して身を汚し、それまで捧げて来た日々が無になるとあるが、もし、自分の身にこのようなことが起こったらと考える時、偶然によって聖別の期間が伸びるのなら、神がご存じのことなので平安だと思う。神には偶然は無いから。
従順の日々を主が知っていてくださるなら、従う日が伸びたことには意味がある。たとえその意味が直ぐにはわからなくても、主がご存じ故にそれで良いのだ。目的が叶うことがすべてではなく、主のうちに在ることがすべてであると思うから。
その人は、ナジル人としての聖別の期間を、改めて主のものとして聖別する。そして一歳の雄の子羊を携えて行き、代償のささげ物とする。それ以前の日数は、彼の聖別が汚されたので無効になる。(12)
主に従うことを求めてのナジル人なら、未だその名を得ていなくても、従順のうちに神に留まることによって、主にはすでにナジル人であろう。
世ではみことばに従う日々にも、がっかりさせられる事は絶えずあり、何よりも自身に気落ちすることは絶えない。
それでも「主はご真実である」と信頼する時、昨日までと同じように明日も共にいてくださると立ち上がることができる。
今キリスト者には、捧げものとなられた子羊イエスが近しくいて、すべての欠けを贖い、罪から覆っていてくださるのであり、救いの失われることはない者である。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(へブル13:8)
ナジル人は聖別が満ちると、ぶどう酒を飲むことが許された。試されて強められ、主にあって生きることを、喜び楽しむ余裕を与えられたのであろう。
固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。(へブル5:14)
信仰生活も年数と共に自由度が増しすように思う。それは幾らか主を知ることによって、聖霊の導きのうちに神が好まれるものと、嫌われるものを見分ける感覚が訓練されてのことである。
主が喜ばれないと気づくと、たとえすべての人がしていることでも避け、試練の中に置かれていても、主を喜ぶ平安を持っている。
祈りはシンプルになり、感謝と賛美は絶え間なく霊のうちにある。それは三位一体の神とのお交わりである。
主はモーセにこう告げられた。
「アロンとその子らに告げよ。『あなたがたはイスラエルの子らに言って、彼らをこのように祝福しなさい。
主があなたを祝福し、あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』
アロンとその子らが、わたしの名をイスラエルの子らの上に置くなら、わたしが彼らを祝福する。」(22~27)
主の御名によって祝福するとき、みことばを主が成就してくださる。キリスト者は祝福を受けるだけの者とはならず、互いを祝福するとき其処に主の祝福は満ちて、恵みが溢れ出る所となるのだ。