何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(3~5)
すべてはキリストのご性質に与ってのことであり、似た者としてくださるのは、聖霊の働きに拠ることである。
キリストの愛がはっきり見えるようになり、その愛を体験して行く中に満ち足りた愛はあふれ出で、キリストの思いは自分の思いとなり行動となるのだ。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(6~8)
キリストは究極まで父なる神に従順された。御父が愛して造られた人類を、ご自分の命を捨てるまでに愛し続けてくださった。
イエスは経験したことのない罪を負い、人を罪の罰から解放して神と和解させて平和を与え、御国に迎え入れるために、御父のご計画に従順してくださったのである。
人なら我が子をあがない代に差し出す親は恨まれ、何の価値もないのに愛された人を妬むであろう。そう、この神のご計画にサタンは激しく妬んで、人を滅びに誘惑し続けているのだ。
神は、ご自分のものである人を無条件に愛して御子を遣わし、十字架の血で罪を洗ってあがない、永遠の御国に迎えてくださる。
イエス・キリストは見える神の御姿となり、神の愛を世で実現してくださった。
聖霊は神が妬むほどに人のうちに親しくいてくださり、すべてのことを通して神を知ることを導き、神の愛のうちに平和に生きて、その愛を行動する力をくださっている。
三位一体の神の愛に居る者に、どうして神の愛が染みて形となって現れてこないことがあろうか・・。キリストの究極までの謙遜を受け継がないことがあろうか・・。
完全であることは遠く思えても、私たちに居て下さる方に拠れば、望みの平安がある。
キリストの十字架を覚えるたびに愛された経験がよみがえり、赦された経験は許してあまりある愛となり、心にはキリストに触れられた記憶が残って行く。
キリストが経験された以上の裏切りも、侮辱も、無実の罪も経験する人はいない。そこに完全に許して愛することができる根拠がある。
十字架の死以上の愛はない。それ以上の神への捧げものはない。キリストの捧げものは私たちのすべての問題を祈りとし、解決と祝福に変えてくださった。それによってたまわった平安に住まわしてくださっている。
すべてを成し遂げてよみがえられたキリストは、「平安があなたがたにあるように」と何度も祝福してくださったではないか!
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、
すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(9~11)
たまわった平安の中で、神をほめたたえる賛美と感謝の祈りが地上に絶えませんように。地球が回るように造られたのは、地上で祈っている人が絶えないためであり、神の御名をあがめて喜ぶ喜びが絶えないためである。