石ころ

血と水が出てきた(ヨハネ19章)




女たちとイエスの愛する弟子ヨハネは、十字架のそばですべてを見ていた。愛する方の激しい苦痛から逃げずに、恐れることなく御側で留まっていられたのは、イエスさまとの愛深い関係によって望みを持ち続けていたからである。目の前で処刑されている現実にも、なを神のキリストに対する信頼は、彼らから去らなかったからである。

イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(ヨハネ19:26~27)


イエスさまはマリヤをずっと「女の方」と呼んでおられたが、最後に愛する弟子に「あなたの母」として託された。イエスの愛に安息するヨハネは、たまわった母と穏やかな時間を過ごしただろう。愛する方からたまわった恵みの時を一緒に味わったのだろう。

この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(ヨハネ19:28~30)


イエスさまはこの時まで、父なる神さまと断絶された事はなく、常にいのちのことばを受けておられた。イエスさまが世で渇きを覚えられることはなかった。ただ、

そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)


十字架で人の罪を身代わりに負ってくださったこの瞬間、イエスさまは激しい渇きを覚えられたのだ。その時、人が差し出すことができたのは酸いぶどう酒であった。
今もイエスさまの必要に、酸いぶどう酒を差し出してはいるのではないか・・とドキンとした。

イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。
しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。(ヨハネ19:33~34)


人の体から、血と水が分かれて出て来る事はあり得ないことである。それは神のキリストの御体の証である。すべてを見ていたヨハネはそれを証言した。イエスさまが「完了した」と死なれた後も、彼はお側から離れなかったのだ。

だから神のキリストの証を心震えながら伝えた彼の言葉は、聞いた者の心に深く伝わるのだ。神のみわざには深い感動があるから、それが人の心に響き証するのである。

それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。(ヨハネ19:35)


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