石ころ

見て聞いて信じる(ヨハネ20章)



さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。(ヨハネ10:1~3.8~9)


彼らは空の墓を見た時、イエスさまが十字架で死んで葬られ、三日目によみがえると聞いていた言葉を信じたのだった。

イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。(ヨハネ20:14~16)

何時も呼ばれている言葉を聞いた時にマリヤの目は開け、よみがえりのイエスさまとわかった。
日々聖霊の導きの中でみことばを近しく聞き慣れたことばとしているなら、世で起こることに対しても予め備えさせてくださる。理不尽な出来事にも平安があり、心穏やかに身を避けることもできるのだ。
起こっていることがイエスさまがご存じのことと知る時、それがどの様な状況にあろうとも、主の良きご計画の中であることを確信するるからである。

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19)

復活のイエスさまとの再会は平安から始まった。平安をたまわって遣わされて行くのである。それは世のあらゆる罠から守り、責めを退け、聴いた言葉をまっすぐに届ける力の源である。

こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。(ヨハネ20:20)

イエスさまは戸をすり抜けて入って来られ、御手の釘の跡を見せてわき腹の槍の跡を見せて、復活の御体を確認させてくださった。それは彼らの揺るがぬ信仰の備えである。

イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:21~23)

キリスト者は、祈りによって神の赦しを運ぶ者である。怒りを覚える時抱えることなく「許します」と言葉にし、感情に逆らっても執り成して祈る。それはキリスト者が主にたまわった仕事であり、「主の祈り」で告白した言葉の行いである。

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。(ヨハネ20:24~25)

トマスの呻きが痛いほどわかる。同じように命を捧げて来たイエスさまに、自分ひとりが会えなかったことはどれほど悲しく無念であったことだろう・・、ひとり捨てられたように感じたことだろう。彼の言葉は駄々をこねる子のようでもある。彼が本当に信じないなら此処にはいないのだから・・。

八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」(ヨハネ20:26~28)

イエスさまはトマスの悲しみをあがなってくださる。そうして彼のイエスさまへの信頼は深められ喜びに溢れて礼拝した。「私の主、私の神」そう叫ぶときは霊も魂も喜びで震えている。「私の・・」と個人的な親しみを込めて叫ぶ喜びである。

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)

見ずに信じる者とは私たちのことである。私たちは使徒によって残された言葉によってイエスさまに出会い、想像の及びも付かない幸いを頂く者となった。
聖霊の導きの中で、みことばはみことばを開いていよいよリアルな主に在って、やがて見えるその日を晴れがましく思い描きつつ生きる者としてくださった。

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