ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。(ルカ19:2~4)
彼が金持ちの取税人ということで、金には抜け目のない計算高さがわかるが、この時のザアカイは走ったり木登りをしたり・・まるで、子どものようになってイエスさまに出会った。その心に、イエスさまはタイミングを合わせておられた。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。(ルカ19:5~6)
御声を聞いたザアカイは急いで木から下り、大喜びをしてイエスさまを家に迎えた。彼の心がとても飢えていたからである。
ご馳走は山盛りにあっても、豪華な家に住んで居ても、そんなもので心が満たされることはない。いのちの安心はない。イエスさまを迎えた時はじめて、人はすべてが満たされるのである。
ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8)
この衝動的な捧げものの約束も、まるで子どもの計算である。彼はただ、ただ、イエスさまに出会った喜びを爆発させている。
でもね、本当にイエスさまに出会った者は、このようになってしまうものなのだ。「もう、何も要らない!」というほどに満足してしまうから・・。
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:9~10)
イエスさまは、今も失われた人を捜していてくださる。時を逃さないように人目をはばからず走って、手を尽くしていのちのチャンスを掴むのだ。
見たいと願って、聞きたいと願って、木に登る者の熱心にタイミングを合わせてくださるから・・。渇いていることを、飢えていることを、子どものよう真っ直ぐに知らせよう。永遠に続く爆発するほどの喜びのために。
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