石ころ

はっきり見えるまで(ルカ18章)




すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」(ルカ18:28)

金持ちの青年はこの世に有るものと、神の国を天秤に掛けて、イエスさまから去っていったが、まことに弟子は子どもの信仰である。
弟子の清さとはひとえにこのことにある。天秤にかけるものを持たない心の貧しさである。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。(マタイ5:3)

人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。(ルカ18:32~33)
弟子たちがすべてを捨てて従って来たイエスさまは、ご自分が十字架で殺されることを話された。また、よみがえりを話されたが、彼らは理解出来ないままにも離れずに聞き続けたのは、心にイエスさまにしかなかったからである。

 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。
群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。
ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、

彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。
彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。(ルカ18:35~39)


彼は黙らせられなかった。イエスさまを求める時は人を恐れてはならない。聞き分けの良い子にさせられてはならない。主の救いが通り過ぎてしまわない内に、御名を呼び続けなければならない。

彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。
イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、(ルカ18:41~42)


今もキリスト者は主に叫び続ける。「霊の目がはっきりと見えることです」と・・。

すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と言った。
それから、イエスはもう一度彼の両目に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。(マルコ8:24~25)


このことは弟子がイエスさまを知って行く過程でもある。はっきり見えるまで離れずに聞く者は、御手でふれられ、この目で見て、この耳で聞いたほどに、みことばを経験するようになる。

彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。(ルカ18:43)

はっきり見えたならイエスさまについて行く事ができる。神さまをあがめることが出来る。ぼんやりとしか知らない方を、心からあがめることはできないのだ。
弟子がわかるまで願わなければ、人々が神を賛美する声を聞くことはないのだから。

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