腫瘍は5mmまで縮小しており、腫瘍マーカーも正常値まで下がっていると伝えられた。なを、「肝臓の値まで正常になっています。何も治療をしないで治りましたね。」と、二人の医師からそのように言われた。
主人を通して、多くの医師の前で数字とし、映像としてイエスさまの奇跡が現されたことに、恐れを覚えて昨夜は眠れなかった。
今までも数々の癒しを頂いて居るし、沢山不思議なお守りも経験しているけれど、それらはすべてイエスさまと私たちの個人的な関係の中でひっそりと頂いて居たことだった。
しかし、今回はそれらとは違う。そのことをどのように受け止めるべきなのかわからなくて・・少し狼狽えていた。
朝から、掛かり付けの先生に医大の結果を報告に行った。
「それは良かった」と、喜んで聞いて居てくださったけれど、「もう、これで終わりにしたいのです。点滴も減らすことができないでしょうか。」という言葉に、キッとされて「病気を甘く見ない方が良いですよ」と言われた。
医学者と信仰者は見るところが違うのは当然なのだろう・・。
医大でも、そのようなことを訴えたとき「まだ腫瘍は在るのですから、これからも診て行く必要があります。」と3ヶ月後の予約を進められたっけ・・。
私は単純に、回復しているのに検査をしたり、治療を進める意味がわからないだけなのだけれど・・。
聖書には、イエスさまに癒されたペテロのしゅうとめは、すぐにイエスさまをもてなして立ち働いている。
本当に良くなったかどうか自分の中をのぞき込むようなことはしない。それが信仰者の姿だと思うから・・。私たちにとっては主の癒しこそが完全なのだから。
でも、イエスさまが5mm残された事の意味を感じ、もうそれ以上は何も言わなかった。
3ヶ月前には1㎝残されていた。
この時もなぜ?と私は不思議に思った。完全に癒すことが出来る方が、あえてチビチビと残されるのはなぜだろう・・って。
ブツブツとつぶやきつつも、きっと主の意図されることがあるのだろうと深い所では気付いていた。
思えば、何の働きもない年寄りになぜ今更癒しなのか・・人間的にはそうだけれど・・。
それはイエスさまのお決めになったことであるから、人は主の価値観を恐れるべきなのだ。
主の価値観は人とは真逆であり、弱い者愚かな者を用いるお方であるから・・。
確かに、聖書の中でも年寄りを用いておられる。わざわざ年寄りになるのを待って用いることがある。
力を無くすことが祝福であったり、人のステータスを塵芥と捨てることを喜ばれたりする。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(Ⅰコリント1:27)
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)
何の力もない者、何の価値もない者を、一方的に愛し、完全なご自身のわざによって用いることがお出来になるお方がイエスさまである。
人が何一つ神様を助けることが出来なくなって、初めてお役に立つことがある。
ただ、主のなさるままを受けて、主の用いる御手に信頼していよう・・。御旨にすべての時をお委ねして此処に安息しよう。
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ムベ
鹿嶋春平太
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