ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。
イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。
そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。(ルカ17:12~16)
彼らは律法によって世から隔絶され、人に近付くことを許されなかったので、声を合わせてイエスさまに叫んだのだろう・・。
しかし、癒された時ひとりだけ、共に生きてきた9人に決別してイエスさまに帰って来た。
去って行った人たちはイエスさまに近付くことはなく、祝福の断片で満足してしまった。
異邦人の彼だけがイエスさまに戻って来たとあるけれど、異邦人ゆえに彼には疎外感もあったのではないか・・。
しかし、その寂しさを補って余りある祝福は、彼がひとりで行動をする時のために備えられてあったのだと思う・・。
信仰は集団で行動するものではない。一人ひとりが自分の意志によって、日々道を選び取りそれぞれの歩幅で歩むものであるから・・。
群れることは縛りともなる。ともだち百人はいらないのだ。主に在っては家族に対してさえも、常に身軽に居ることが必須である。呼ばれればすぐにすべてを捨てて行く者であるから・・。
再臨の時に家族連れで昇っていけるとは考えられない、むしろこの考えが間違っていて欲しい。息子も嫁も、孫もみんなを誘って行きたいのは当然だから・・。どれほどそれを願っていることだろう・・。誰だってそうだ。
私もイエスさまに「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と叫んだ者である「息子が死にそうなのです。」と・・。
それから、イエスさまの憐れみとみことばのご真実をゆっくりと・・、主の飴と鞭によって信仰を躾けて頂いた。
今は大胆にイエスさまに近しく居らせて頂いている。
姦淫の女でさえ居心地の良いイエスさまの御側に、まことの故郷を見いだしたのだから、この世に求めるものは何もない。
イエスさまは息子も私も生き返らせてくださった。
でも、本当に大切なことはイエスさまと共に歩んだプロセスなのだと気付いた。主は気前の良い方であるから、無条件に願いを叶えてくださる事があるけれど、神の国抜きにそれらを求めても、何の意味があるだろう・・。
9人の癒しは、彼らには瞬間の満足に終わってしまっている。はかない肉の命に満足しても人にも神にも益とはならない。
今、キリスト者には御国こそがゴールである。寄り道をどんなに楽しんでも、御国の懐かしさに比べればひたすら早く帰りたいと・・私はそう思う。
でも、十字架を負っている。イエスさまの救いを喜びつつ、神をほめたたえ感謝をして世で暮らすこと・・。
その役割を勝手に投げ出すことは出来ないので・・頑張っている。
イエスさまが「もういいよ。良くやった良い忠実なしもべだ。」って言ってくださる夢を見つつ・・
まあ・・、人には頑張っているようには見えないだろうけれど・・私なりに。
やもめが息子を亡くした姿を見て、イエスさまは可哀想に思って癒された。(ルカ7:13~14)
イエスさまは憐れみ深いお方である。情けのあるお方である。
でも、この奇跡を通して「人々が神をあがめた」ことこそ大切なことである。イエスさまは父のみこころをなさる。すべては、父の御名があがめられるためなのだから・・。
コメント一覧
ムベ
ダイエット
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事