バラムはバラクに言った。「私のためにここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七匹の雄羊をここに用意してください。」
バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムは、祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一匹を献げた。(1~2)
「私のために祭壇を・・」バラムが主を礼拝するためと言うのだろうか。献げものも、モアブの王が準備したものを主に献げることには違和感がある。すべては神に敵対する者が準備したものである。バラムは礼拝の形を知ってはいても主が分かってはいない。
神がバラムに会われたので、バラムは神に言った。「私は七つの祭壇を整え、それぞれの祭壇の上で雄牛一頭と雄羊一匹を献げました。」(4)
バラムは誇らしげに神に報告しているが、それはバラクが神の民を呪うために準備したものである。主はこのようなバラムに忍耐され、イスラエルの祝福のために彼を用いられる。
主に用いられるときに思うことは、主が忍耐していてくださるということ。その度に愛は忍耐強いということを教わる。そう、神は実に忍耐強くイスラエルを祝福し続けられる。
預言者が神に用いられるに相応しいからではない。人はみな主を知らず、無知であり、ただ主の忍耐によって用いられ、神の民の祝福のために時に応じてことばを授けられるのである。
バラムは神から授けられた言葉を告げた。主に用いられることは何にも勝る祝福である。大きなことでも小さなことでも・・。
私はどうして呪いをかけられるだろうか。神が呪いをかけない者に。私はどうして責めることができるだろうか。主が責めない者を。(23)
このことは、神の子とされたキリスト者の平安でもある。サタンが責めたてても、主に責められてはいないからである。そのことを知っているゆえに、自分自身を責めたてることもしない。ただ。主のお憐みに感謝し、お愛に信頼してしっかり立つのである。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)
岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。見よ、この民はひとり離れて住み、自分を国々と同じだと見なさない。(9)
神の選びの民は世の民とは違って、神の愛の中に生きる者である。それは彼らが他より優秀で聖いからではない。
ただ、神の一方的な選びによることである。事実、彼らは頑なで霊的には鈍感であり、多くの失敗を重ねつつ、神のお約束に拠って救われるのである。
だれがヤコブのちりを数え、イスラエルの四分の一さえ数えられるだろうか。私が心の直ぐな人たちの死を遂げますように。私の最期が彼らと同じようになりますように。」(10)
空の星、海辺の砂を数えることが出来ないように、神の約束によって祝福されて、荒野ででも増え広がる民なのである。心の直ぐな人とは、天地創造の神のみを礼拝して主にのみより頼む者である。これはイスラエルの完成された姿の預言。
バラムは祝福の民と同じように、祝福された死を願った。彼が神に用いられている姿のままに、主を求め続けていればその祝福を得たであろう・・。