石ころ

年を取ると言うこと


100歳の方が、90歳から1時間歩く事を始められたと敬老の日のテレビで見た。これは本当に驚きだった。何かを始めるのに、遅すぎる事はないと聖書にも書いてあるが、90歳になってから体を鍛えるなんて私は想像もしなかった。

主人は、「俺は100迄生きるなら、まだ30年近くあるのか」その言葉は嬉しいそうではなくちょっと不安げであった。長生きすると言うことは大変なこと。今ではあまりに長すぎて、余生なんてものじゃない。老後なんてものじゃない。30年も40年も何をする当てもなく生きるとしたら、それはむしろ辛いことだと思う。
人が生きるには目標が居る。日々為すべき事が無くて、ただ何十年も生きるとしたら終身刑のようでさえある。

本当は、どうしてもしなければならない子育てを終えて、縛られるものがなくなってからこそ、自分の人生を生きる事が出来る時期だろう。その時にひとりの個人として、生きる目標がなく空っぽになってしまっていては、この長寿時代を生きることは辛いと思う。

入院をしていた頃に、老人の生きる辛さも沢山見てきた。
動かない体の世話を家族に掛けることを恐れて、退院したくないけれど、病院からは退院を迫られている方。
下のお世話を遠慮して、帰宅する時には何も口せず、水さえ飲まない方。
お見舞いの方がほとんど来なかったおばあさんに、ある日お見舞いの人が来られたけれど、ちょうどベットを離れておられる間だったので、その見舞客はさっさと帰って仕舞われた。ベットに戻ってこられて、そのことを聞かれたおばあさんは嗚咽して泣いて居られた。

私はその時激しいショックを感じた。同室の見舞客がよけいにその方を寂しがらせていたのだろうと悔いた。どうしても、若い者の方が見舞客も多いし、長期の入院になると見舞客もだんだんなくなるだろう。年を取ると言うことの孤独を思った。

どんなに体を鍛えていても、動かなくなる時が来るだろう。助けてくれる人がなければどうにも成らない時が来るだろう。そして一人で死に向かって行く時が来るだろう。ひとり静かにその時に身を委ねて行くためには、「もう充分に生きた」というものがないと辛いだろうと思う。そして、死ぬことへの希望、救い主イエス様の元に帰るという望があるクリスチャンは幸いであると心から思う。


イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 聖書

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