人でも家畜でも、主に献げられるすべての肉なるもので、最初に胎を開くものはみな、あなたのものとなる。ただし、人の長子は、必ず贖わなければならない。また、汚れた家畜の初子も贖わなければならない。(15)
初子は神がエジプトを出るときに、死から守られた神のものであり、祭司の養いとして与えらえる。人の場合は家族の元に置くために、定められた代価によってあがなわれた。
汚れた家畜は、祭司の食べ物とはならないので、その場合も代価が支払われた。
キリスト者は、キリストにすべての罪を贖われた者である。私たちの罪の代価として、神のひとり子であるイエス・キリストの命が支払われた事を知っている。それは比べるべきものが他には無い高価な代価である。
最大限の代価が支払われているゆえに、その事実を信じる者は行いには拠らず信仰によって、一方的で完全な赦しをたまわる。もう、その人の過去、現在、未来において、神は彼に罪を認めないのである。
そのように、キリストの命によって買い取られた者はみな、キリストのものである。それゆえ、キリスト者はすべてをみことばによって選び取り、聖霊に導かれて、生きる者となったのである。
御子をもって買い取ってくださった神は、それゆえに、キリスト者を「高価で貴い」と言われる。主によって、途方もない価値がつけられた者だからである。
ただし、牛の初子、または羊の初子、あるいはやぎの初子は贖ってはならない。これらは聖なるものだからである。あなたはそれらの血を祭壇に振りかけ、脂肪を食物のささげ物、主への芳ばしい香りとして、焼いて煙にしなければならない。
その肉はあなたのものとなる。それは奉献物の胸肉や右のもも肉と同様にあなたのものとなる。(17~18)
食料となる牛や羊の初子は、主に捧げる部分と人を養う部分に分けられた。それは主と同じものをたまわる食卓であり、永遠に続く恵みの宴会のようである。
ただ、創造主なる神を主とする作法として、まず定めの通りに捧げる事から始まるのである。
イスラエルの子らが主に献げる聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたと、あなたとともにいる息子たちと娘たちに与えて、永遠の割り当てとする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。(19)
神は彼らとその子孫に、いつまでも変わらない塩の契約を結ばれた。ご真実な神の契約は彼らのあらゆる背き、神が遣わされたキリストを否み、殺すほどのことがあっても、永遠の地に迎えると約束されている。
主はまたアロンに言われた。「あなたは彼らの地で相続地を持ってはならない。彼らのうちに何の割り当て地も所有してはならない。イスラエルの子らの中にあって、わたしがあなたへの割り当てであり、あなたへのゆずりである。(20)
神ご自身がゆずりなら、完全な満たしである。他に何も付け加えるものなど必要ない。
神の子とされたキリスト者も、キリストに永遠の住まいを備えられた者であり、必ず迎えに来てくださる者なのである。
それゆえキリスト者は、世でどのような働きをしていても、それに執着して引き回されることはなく、御声を聴いたとき驚喜して、天に飛び去る者である。その時は明日かも知れないのだ・・。なんという自由の中に住んでいる者であろう!