石ころ

神が証しされる(出エジプト9章)

 

主はモーセに言われた。「ファラオのところに行って、彼に言え。ヘブル人の神、主はこう言われる。『わたしの民を去らせ、彼らがわたしに仕えるようにせよ。
もしあなたが去らせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、
見よ、主の手が、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に重い疫病が起こる。(1~3)

 

家畜の疫病は、エジプトにまん延したが、イスラエルの家畜は一頭も死ななかったとある。確かに神はご自分のものを区別して、それが神のわざであって、ご自身が力ある神であることを証される。

 

生ける神は、私たちが信仰するお方がどのような神であるかを証してくださる。エジプトでの奴隷からイスラエルの民が解放されるために、彼らはエジプトと戦う必要はなかった。
彼らはすべてにおいて現される神の力を近しく見て、神のみことばはすべてそのとおりに成ることを経験し、みことばへの従順を学べばよいのである。

 

この時エジプトも神を知ることは出来たのである。しかし、ただ目の前の一つひとつの災害に振り回されて、それが唯一の神から発していることを悟り、神を恐れてひれ伏す心は持たなかったのだ。

 

御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)

 

そもそも神がヨセフを通して導かれた地であり、神が置かれた場所で起こっていることである。そこは神が共にいてくださる場所である。

レンガ作りの藁が与えられなくて労働が倍の苦しみとなっても、神の言葉から起こったことであり、そこは大いなる神を経験するために命を懸けて待ち望む時である。

 

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)

 

今も昔も、すべてのことは神の御名があがめられるためである。
人が神のわざを経験することはなんと光栄なことであろう。その日を見るための必要は神を愛して信頼することであり、聖霊に守られての忍耐である。そう、苦難の日に神に信頼して、喜びを待ち望む者こそ神の子である。

殉教の先人たちも、そのように晴れがましくゴールインしたのだ。安らかに・・。


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