石ころ

キリストに在って敵のために祈る

 

わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

 

キリスト者が敵のために祈ることが出来るのは、その最悪の中にも神の良き計画があることを経験から知っており、すべては人の祝福となるからである。
戦いの中の残酷な敵のために祈るのは、神が我らの味方であることを知っており敵をも変えるお方だからである。

 

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)

 

祈りはまず味方のためであり、イスラエルが目の前の出来事を通して、イエス・キリストに跪いて御救に与る時と成るように、イスラエルのクリスチャンが守られ強められて用いられるようにと祈る。

攻め寄せる敵がイエス・キリストに出会って変えられるように、彼らのうちに主が働いてくださるように祈る。救いは神の御わざであるから・・。

私のような者が救われたのは神の御わざであって、それは主の憐みから出た奇跡である。キリストの敵であったパウロが最大に働く味方となったように、神にはどんなことも出来るからである。

 

イスラエルに住む人々の霊の目が開かれて、命の危機に在る大人も子供も「イエス・キリスト」の御名を慕い求め、キリストの御救いが命のある間に成るように。
ガザに住む人々の上にも、主に覚えられている人々があればイエスの御名を呼ぶことができるように。彼らに福音を聞くチャンスが備えられるように。

 

敵に責められ痛めつけられている者は祈れない。その屈辱と激しい苦痛も知らない者が、敵のためにも祈ることが出来るのである。それゆえに安全な所に居る者に味方と敵のために祈れと命じられる。

 

私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。(Ⅰコリント12:13)

 

謙遜になってイエス・キリストの十字架による御救いに平伏し、肉に拠る生き方から、神の霊に拠って生きる人生に方向転換をして、感謝のうちに十字架を受け入れなければ、神の選びに在っても救われることなく、ただキリスト信仰によって誰でも救われるのであって、救いは一つであり一つのからだとなるのである。

 

この単純さによって、命をたまわるほどに愛してくださった神を否む者は、その最大の罪によって永遠の滅びを選び取る。
それはイスラエル人であっても異邦人であっても差別はない。それ故に執り成しの祈りを主は求めておられるのだ。彼らの魂が聖霊の導きによって、キリストの御前に遜る時を逃しませんようにと・・。

 

わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。(ヨハネ10:9)

 

キリストは天の御国に至る唯一の門である。この世に在る間も主の御許に出入りして、親しい神の家族の交わりにいる神の子の特権をたまわる。

戦場と化した日常に緊急の救いが必要な人々が溢れる。それは味方の中にも敵の中にも差し迫ってあり、主は彼らのために祈るようにと命じておられる。今、命が脅かさることの無い所に置かれている者に・・。
     
「罪の無い人々が殺されています。」と戦場からの報告がなされるが、戦場で罪の無い人と殺されて当然の人の違いは何なのだろう。戦場では優しい夫や愛深い息子も人を殺すことを命じられるからである。


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