石ころ

キリストに在って敵のために祈ることが出来る(申命記23章)

 

睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない。(1)

 

神に組み立てられた完全なからだを、偶像や人に仕えるために傷つける行為は神に逆らうことである。

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」(創1:28)

神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。(創9:1)

 

神が祝福された命のご計画は「増えよ。地に満ちよ」であり、すべて主が望んでおられる子孫の祝福を阻むような行為はみこころではないのだ。

 

不倫の子は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ主の集会に加わることはできない。(2)

 

神は、ダビデとウリヤの妻バテシェバとの間の子は生かされなかった。罪が引き継がれることがないためである。ダビデが主に悔い改めた後に、キリストに至る祝福のソロモンが生まれたのである。

 

アンモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して主の集会に加わることはできない。
これは、あなたがたがエジプトから出て来た道中で、彼らがパンと水をもってあなたがたを迎えることをせず、アラム・ナハライムのペトルからベオルの子バラムを雇って、あなたに呪いをもたらそうとしたからである。(3~4)

 

彼らはイスラエルを呪うことで、自らに神の呪いをもたらせた。神が愛する者に対する愛には愛が、呪いには呪いが返って来るのだ。
しかしイエスは、すべての呪いを十字架で負って贖い、十字架の血潮によって洗いきよめて、罪の呪いを祝福に代えてくださった。このことは誰であっても、キリストの十字架のあがないを信じる者に実現する救いである。

 

主を愛さない者はみな、のろわれよ。主よ、来てください。(Ⅰコリント16:22)

しかし、神からおくられたキリストを通さずに、罪の呪いから解かれる術は何も無い。
それはただ信じるだけでたまわる、神のひとり子の命懸けの愛を、自由意思によって拒絶したからである。愛は互いの意思によって成立するものであり、神が押し付けることは出来ないのである。

 

しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主はあなたのために呪いを祝福に変えられた。あなたの神、主はあなたを愛しておられたからである。
あなたは一生、彼らの平安も彼らの幸せも決して求めてはならない。(5~6)

 

神はこれほどにご自分の民を愛し格別に扱ってくださる。イエス・キリストを信じて御救いに与った日から、どれほどに世から庇って守り、失敗から守るために予めの助けを備えてくださったことであろう。しかし神は愛ゆえに、今、敵対する者のためにもキリストを遣わし、彼らの救いをも備えていてくださる。

 

キリストに拠って、今私たちは誰のことでも救いを求めて祈ることが出来る。彼らの平安を祈ることも幸せを祈ることも出来るのである。聖書は敵のためにも祈れと書いてあるからである。

わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

 

たとえ今は信じることが出来ずにいる人のことも、決して諦めることなどできずに、救われる日を待って祈るのは、キリストの命が支払われているほどに高価な命であり、信じない者の死が滅びであることを知っているからである。
神はその祈りをキリストの中に在る者の声として、憐み深く聞いていてくださるからである。


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