石ころ

思い煩う愛




わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。(マタイ10:37)

 人は、愛するほどに悩みも思い煩いも増すものである。「思い煩い」それらは過去のこと現在のこと未来のことと怪しげな仲間をぞろぞろと連れて来て脅し、心をがんじがらめに縛り上げようとするものである。
そのような時このみことばの警告を受けて、私は何処で平安を失ったのかが解けた。

煩いの一つひとつを床の中で主の御前に運ぶ。それだけでかの有象無象は消えて行く。それは思いの中で消えるだけではなく、主に在って現実においても消え去るのだ。
その作業の何処までが夢か現かわからない断続的な祈りの内に朝になっていて、たしかに眠ってはいたが夜の祈りが目覚めた時にも続いていた。

 
 ヨブは有り余る豊かな財産を持って繁栄していた。しかし仲良くなんの問題もない子供たちのことをも思い煩い、おびえさえ抱いていたと書いてある。
人は神様にどれほど祝福されても、信頼することができない部分を抱えていたのだ。

「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。(ヨブ記1:5)
私の最も恐れたものが、私を襲い、私のおびえたものが、私の身にふりかかったからだ。(ヨブ記3:25)


 先走る心配は人の賢さからだろう。動物はその時なすべき備えをすることはあっても、明日のことを思い煩うことはないだろう。
人だけがこのように思い煩うのは、人が神に逆らって賢くなったからである。

神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:16)
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4~5)


確かにそれ以降人は賢くなって、神のことばではなく自分で判断して行動するようになった。でも、すべての始まりが敵の罠から始まっていることから、自分のしたいことが出来るわけではなく、サタンの脅しに引き回されているのだ。

 しかし、神様は愛するひとり子イエス・キリストを世におくってくださった。御子のいのちと引き替えに、善悪の知識の木の実による失敗をあがなってくださった。
今、御子のいのちで買い与えられたラブレターである聖書を開き、造り主の愛による平安によって暮らしなさいと言われている。

何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6~7)

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