昨日は真っ青な空に誘われて家を飛び出した。思わず「あ~しあわせ」って声に出た。温かなお風呂に身を浸して「あ~しあわせ」、ケーキが美味しくて「しあわせ!」、お日様の香りのお布団に「しあわせ~」幸せはいっぱい転がっている。
世のニュースは底知れぬ闇を垣間見せているけれど、私は身近の幸せを摘んでいよう。
風もなく穏やかなのでと~っても久しぶりに合鴨さんに会いに行こうと、いつもの倍歩くことになった。ずっと会いたくて心に掛かっていたから・・。
あちらの畑もこちらでも大根は伸びきり、白菜は枯れて黄ばんだまま所在なげに立っていてた。田も今は冬枯れの侘びしさ・・柿は小鳥にすっかり食べられてヘタばかり黒っぽく枝に残っていた。
空を見ながら太陽を受けて歩く、小さな飛行機が音もなくゆっくりと空を横切った。
全身で受ける日差しは強くウインドブレーカーを脱いで腰に巻く。きっと相撲取りの廻しに見えるだろうけれど・・だぁれも見ていないよ~。腕まくりをしたら汗ばんだ体に柔らかな風が心地よい。
首を傾げて見上げる合鴨さんを思い浮かべて、青空の下に広がるなだらかな道をひたすら登り折り返し地点まで来た。少しつま先と腰に違和感を感じたので歩を留めて一息入れる。此処をぐるりと回ると後は下り坂なので楽勝なのである。
弾む気持ちを抑えていよいよ久しぶりのご対面。
しかし、あれっ・・なんか雰囲気がちがった。小屋の扉は開いていて、そんなときには外で遊んでいる合鴨の姿があるはずなのに見えなかった。小屋の中をじっくりと覗き込んだけれど、えさ箱は外に放り出されていて、以前は置かれていた菜っ葉の影もない。水路にも水を浴びる姿はなく生きものの気配さえ無かった。
どうしたのだろう・・。がらんとした鳥小屋、外に掘り出されたえさ箱、水路の流れさえ溝のようだった。
何処に行ってしまったんだろう、獣に襲われたのだろうか・・、二羽で首をかしげて、じっと見上げてくれるのじゃなかったのかと立ち尽くす。
やっと歩き出した時、「かなしいなぁ」思わず声に出た。下り坂なのに足が重くて嫌になってきた。もう、二度と見られないのだろう・・
「つまらないなぁ」空っぽな心で歩いていると体まで冷え冷えとして来て、上着を羽織ったとき出掛けにポケットに一粒放り込んで来た飴を思い出して口に放り込んだ。
まるで子供みたいに飴玉で・・それでも少し心が落ち着いた。
生きていたから死んだのだ。作り物じゃないから・・命には終わりがある。
しかし、神様はそんなふうには造られなかった。そんな儚いものに造られなかった。人が神様のお言葉に逆らった時から「死」は入ってきた。
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16~17)
それ以来、被造物のすべては同じ運命を負わされている。
被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。(ローマ8:19~22)
今主は、「わたしの肉を食べ、血を飲め」それによって永遠に生きよと言われる。
キリスト・イエスが十字架で流してくださったあがないのための血を受け、十字架で裂いてくださった御からだを「私にもください」と素直に受けるとき、滅びることのないいのちを頂くことができるのだ。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネ6:54~56)
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