先祖代々偶像礼拝の家庭に育った主人は、造り主なる神のみわざを、信じきることが出来ないでいる。
彼らの宗教というものは、心のよりどころに過ぎないのだ。
しかし、キリスト信仰は心のよりどころなんてものではなく、いのちの遣り取りそのものなのである。神の御子のいのちが支払われているのだから。
先祖が信じて来た宗教の話を聞いたことがある、
「誰も、お盆に地獄の釜の蓋が開いて死者が帰ってくるなぞと、本気で信じている者なんか居ない。」と笑われたことがある。そんなことは当然で、ただ心の問題として先祖を思って祭るのだと・・、結局何も信じてはいないのだ。
真に力ある神様は、唯一創造の神様だけであるから、彼らが先祖代々くすしき神の御わざや、生きて働かれる神の力を知らないのは当然だった。
家庭において、神のわざが語られることはなく、たまたま都合良く行ったときには「有り難い」と神棚に手を合わせることがあっても、直後にも「神も仏もない」というのである。気休めに祈ることはあるけれど、信じているわけではないのである。
そのような環境で育った者がイエス様にお出会いして、くすしいわざを受けたとしても、幼少の頃から培われた常識の中で、その事実は屁理屈とともに消えてゆく・・。
だから、偶像礼拝は恐ろしい。聖霊の働きを完全に否定する温床となっている。
たとい、人の子をそしることばを使う者があっても、赦されます。しかし、聖霊をけがす者は赦されません。(ルカ12:10)
今回主人の検診で新たに十二指腸潰瘍が見つかったとき、私はこれはどういうことだろうと思った。
こんな事が繰り返されることに、肝臓の癒しの意味が何であるのか・・と問うて眠れぬままに祈り続けていたのだった。
結局、医大に行くように言われ、権威ある医師のお出ましとなって、何の検査しないうちに、「十二指腸のことはリンパ腫が大きくなって、外部から押してきているものです。」と言われ、以前強硬に勧められていた腹部の生検を押し通され、入院手術という段取りを組まれたのだった。
しかし私は勧められて胃カメラをリアルに見ており、素人にも十二指腸のじゅくじゅくと血が流れ、一部変色している様子を見たのだった。あれが外部から押されたという様子なのかととても疑問だった。
医師の言葉には変なことだらけであったけれど、取り囲まれて私たちは大蛇に飲み込まれるような恐怖を感じた。じつに執拗であって、どうして、これ以上あがらうことができるだろう・・と思った。
少々出費は増えるけれど、セカンドオピニオンをお願いしようか・・などと私が主人に言った時、ハッと気付いた。
主は癒し主である。どうしてこの状態を備えられたのか・・そのことを解かれた。
今、あがらう方法は唯一であると導かれ、「人に頼ることなく、主に頼ることにしない?」と主人に勧めた。
詩編91編は、ずっと主人に語りかけてくださっている。何度も読み返してきた箇所である。私はどうか悟って欲しいと願いを込めて読んだ。
彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(詩編91:15~16)
今、信仰の新たなチャンスを得ている主人に私は聞いた。
「主に頼むのか、人に頼むのか、医者に信頼するのか、イエスさまに信頼するのかだと思う。肝臓癌の完全な癒しを経験しているけれど、そのことはどう思っているの?」
結局主人から「イエスさまが癒してくださった。」という明確な言葉を聞くことが出来なかった。イエスさまだけに頼るということを恐れているのだ。
いつか主人がイエスさまに、「不信仰な私を憐れんでください」と告白すること願って黙った・・。
繰り返し、「あなたは夫に従いなさい」と示されていたから黙ることができる。
これから彼に起こることを私も共に負うけれど、それらは神のわざではなく人のわざである。
これで、先月の検査の結果、何事もなかった悪性リンパ腫の生検を受けるということとなってしまった。
それも、なぜか1㎝の立方体を2個とるという・・いったい何処から取ろうというのだろう。まさか治療なしで完治した肝臓ではないだろうけれど・・。
私たち齢は70年。健やかであっても80年。・・(詩編90:9)
だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。
それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。(詩編90:11~12)
示されていたみ言葉は、今起こっている問題が世の問題ではないのだと教えていた。
しかし主は、主人の選択を重んじることを赦された。
与えられた時の間、私は主人の信仰になを期待して、忍耐の主であるキリストの愛の中に留まって居ることができるように・・と願う。
イエスさまに頼ることを意味もなく恐れ、人に頼ってしまうのはサタンの欺きによることだと知って居る、しかしそれさえもイエスさまの許しの中にあること。
みことばに頼る私に、主の憐れみが家族にもあることを何度も経験している。
けれども昨夜も眠れなかった・・。
眠れぬ夜も、主に在ってそれでよいのだろう・・。
私の心が苦しみ、私の内なる思いが突き刺されたとき、
私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。
しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。
あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう。(詩編73:21~24)
コメント一覧
ムベ
イチゴ
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事