あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。(15)
モーセが語っている「私のような一人の預言者」がイエスではないと思のは、「イエスのような預言者モーセ」なら抵抗感は無いが、その逆には抵抗がある。イエスは誰のようでもない唯一完全なお方であるから。
預言は語られた言葉が必ず成就することによって証される。それはまぎれもなく主から出たことばであり、それを語らせるのは聖霊の働きである。
知識の多さや時代の動き、感情に添った言葉なら人は喜んで耳を傾けるが、神の預言は生まれつきの耳には愚かなことばである。
ノアが船を造りながら大洪水の訪れを知らせても、誰一人喜んで聴き従う者はいなかった。彼らには愚かしい言葉としか思えなかったのである。預言を判断することが出来るのは聖霊に拠らなければならない。
これは、あなたがホレブでのあの集まりの日に、あなたの神、主に求めて、「私の神、主の御声は二度と聞きたくありません。この大きな火はもう見たくありません。私は死にたくありません」と言ったことによるものである。(16)
死に恐怖を覚えるのは愛である創造主を未だ知らないからであり、神を知らない者が死を恐れるのは当然である。
それで主は私に言われた。「彼らの言ったことはもっともだ。
わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。(17~18)
預言者は主による一方的な選びであり、聴き従う者へのいのちの備えである。主に従順するように、聖霊に拠って聴いたみことばに従順するなら、みことばのご真実によって守られる。
イエスはみことばなる御方であり、御父なる神のみこころを語って誰のようでもない、ひとり完全な預言者である。
わたしの名によって彼が告げる、わたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしはその人に責任を問う。(19)
みことばに従うも、従わないもその人の責任となりそれは永遠までの生き死にを決定する。そのような判断は、特別な日のことではなく「絶えず祈りなさい」という、主との交わりの日々によって自ずと選び取るのである。信頼関係のないものに自分自身を委ねることはないのだ。
ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。」(20)
たとえ主に選ばれても人は不完全であり、自分の言葉や思いを不用意に混ぜ込むことをする。それゆえ、預言者の命は選びの時に主のうちにあり、彼はいつも主の憐みに自分自身を委ねることによって生きる。
意識的に主以外のことばを語っている者はすでに裁かれている。彼は主に選ばれた者ではなく、初めから主の名を騙って民を迷わす敵の使いである。主は彼らからご自分の者を守られる。
あなたが心の中で、「私たちは主が語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、
預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼におびえることはない。(21~22)
世には予言が溢れている。昔からあらゆる人の賢さは未来を予言し続けているが、それらは語りっぱなしであり、完全に実現するのは神から発したことばだけである。
聖書は地上の歴史に於いて神のことばの成就を現し続けている。そこには世の終わりまでの事がはっきりと記されている。
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)
すべてのものは、神から発したことばによって創造され、神によってみことばは人の歴史の上に成就して行き、やがてすべては神の御もとに引き上げられる。
造られたものはみな神の栄光の前に平伏し、死者も生者もただひとつのことについて裁かれる。それは神の遣わされたキリストを信じないで、滅びること選んだ責任についてである。