ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。(1~3)
施しを求められても、ペテロたちには彼が求めているものは持っていなかった。
私はキリスト者として、忸怩たる思いに駆られることが多い。それは自分自身の愛の無力さ・・。神は愛であり、その方の愛の中で絶えず味わっているのに、私には愛する力はないこと。
人の愛深さを真似しても付け焼刃であって、いつもちぐはぐで、求められているものではないことに気付くことになる。不要なものを与えられても、それは重荷にしかならないだろう。
しかし、もしペテロが金銀を持っていてそれを与えたとしたら・・。それは、神にはちぐはぐなことなのだ。このシチュエーションを備えられた、神の目的を果たすことにはならなかった。
ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」(6)
彼は求めたものに、はるかに勝る恵みを受けた。それは、施しを求めなければならない状況からの解放だった。
キリストの備えてくださる恵みは、いつも時に叶って美しく、人を生かすいのちの糧となるものである。
人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。(9~10)
ペテロたちは集まって来た人々に、イエスにしたことを悔い改めるように語り、いのちを得るように勧める時を得た。すべてうちにおられるキリストから出て、準備されてあったことである。
イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。(16)
キリスト者が施すものは、内におられるキリストに拠るものでなければならない。そのとき受ける人に届くのは、「イエスによって与えられる信仰」という、人の及びもつかないいのちであり、それは人々に悔い改めと神の御名をあがめる時となるのである。
それは、何時も直ちに届くものではなくても、ご真実な主は私たちの祈りを決して忘れなさること無く、時を委ねて待ち望む者に絶妙のタイミングで、完全なものをくださることを知っている。
やがてその人が踊り上がって神を賛美する日が来る。自分にはないけれど、キリストがすべての必要を持っていてくださり、願う愛を完成させてくださる。自分自身の不甲斐なさを恥じつつも、今日も賜っている神の愛を綴り続けよう。
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。(8)