石ころ

使徒の働き④(4章)

 

彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、
この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、
彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。
しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。(1~4)

 

復活こそイエスが神であるという根拠である。使徒は復活の主の生き証人であり、その言葉は、証なき宗教家たちの教えを、根底から覆す真実な力があった。

 

今サドカイ人たちは、「復活は無い」という教えが間違いであることを認め、神が準備してくださった救いに向き変えて、人々に正しい教えを伝えるべきであった。準備されたチャンスを無視するなら、血の責任を問われることになる。

 

しかし悔い改めることをせず、神の御わざをもみ消そうと画策する罪深さは、サタンの働きである。普通の人たちが見ている、「癒された男」から目を反らし、聖霊に導かれて語る弟子の言葉に耳を塞ぐのは、神の御わざの全否定である。
神にも救いのがたい宗教家とは、皮肉なことである。

 

彼らは使徒たちを真ん中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」と尋問しだした。(7)

 

このように詰問ができる方は神だけである。
「何の権威によって、何の資格によって・・」と、無学な普通の人がみことばを語ることを制止したり、無視することがある。聖書は宗教家の商売道具ではなく、彼らの専売特許として与えられたものでもない。

 

イエスが来られたのは、宗教家や学者の所ではなく、赦しが必要な罪人や、癒しを求めて叫んでいる弱者のもとである。
キリストにもっとも近しく触れられて、生けるキリストの御力をその身に経験している者こそ、受けた神の愛を語るべきである。

 

神は愛である。神の愛によって命を繋いだ経験を持たず、知識と人の知恵によってみことばを独占することは罪である。それは、みこころとは真逆なのだ。

 

福音は聖霊の導きによって普通の人から、あらゆる普通の人々に伝えられ、聴いた人は経験したイエスの愛を口々に語り伝え、至る所に大河となって広がって行くことこそリバイバルである。
聖霊はそのためにイエスを信じるすべての人に来てくださったのだ。


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