石ころ

パニック (マルコ6章)




イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。(マルコ6:45~46)

イエスさまは御父との御交わりの時を過ごされ、弟子たちを強いて舟に乗り込ませ・・とある。イエスさまが居られない無力を経験することは、信仰の成長には重要な事である。キリスト者は主と一緒に居ないと何もできない者なのだから。

イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。(マルコ6:48)

イエスさまは彼らから目を離されることはなく、弟子の困難に近付いて来られた。イエスさまが水の上を歩くことさえ出来る、そのお姿を見れば彼らが力を得ると思われたが、弟子はパニックの中でイエスさまを忘れ、その時パンのみわざの経験を思い出すことも出来なかった。

しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。(マルコ6:49~51)


いつも一緒に居る方を幽霊だと間違えるのはひどいことだが、パニックになるとそういうものだろう。
「しっかりしなさい。わたしだ。」御声を聞いて我に返ることが出来るのは幸いである。彼らはまた新たに、自分自身と主を知ることができたのだ。

 地震や戦争や病気・・家族の心配、世の煩いの中でキリスト者でもパニックになることがある。誰でもみことばを忘れる時がある。
しかし、イエスさまがキリスト者を忘れることはなく、真っ直ぐに見ていてくださり、近しく来て「恐がることはない」と御声を聞かせて力をくださる。此処にキリスト者の平安がある。

「板子一枚下は地獄」と言うけれど、イエスさまに知られている者には、永遠のいのちへの平らな道が開けているのである。
人は主を知っていてもパニックになることがある。しかし、主はすでに御父に取りなしていてくださったのだ。

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