石ころ

私の好きな「みことば」2007.5.3


ヨハネ9章

生まれつきの盲人が、イエス様によって癒されたあと、どんどん変えられて行くところは、私の望みにつながり大好き。いつも励ましを受ける。

「『行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。』そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。『これはすわって物ごいをしていた人ではないか。』ほかの人は、『これはその人だ。』と言い、またほかの人は、『そうではない。ただその人に似ているだけだ。』と言った。その人ははっきりと『私がその人です。』と言った。」(ヨハネ9:7~9)

これは結構すごいことで、人間ってこんな時、知らん顔をしていたいもの。主に癒されて、満たされて、助けられても、黙って知らぬ顔をして生きて行くことも出来る。

彼は、「どのようにして目が開いたのか」と聞く人に、イエス様に癒していただいた事実を語る。でも、イエス様について彼はまだ知らなかった。証したことで、パリサイ人の所に連れて行かれ、やっかいなことになって行く。

「こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。『あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。』」(ヨハネ9:15)

「私は今見えるのです」なんて力強い証だろう!なんてシンプルなんだろう。パリサイ人の間にも分裂が起こった。事実を目の前にしてもイエス様のわざを信じない人達。元盲人の彼は、ただ連れてこられたところで事実を伝えただけなのに、分裂さわぎに巻き込まれて行く。イエス様にふれられた者は、どんなに平和を望んでいても、事実を語らなければならない。

「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」(ルカ12:51)

彼の両親が呼び出され、両親はユダヤ人を恐れて言葉巧みに逃げる。例え家族であっても、自分の十字架は自分で負うしかないということ。

再び呼び出され、曲がった教えを押しつけられた時も、彼の答えはやはりシンプル。
「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

なんて堂々としているのだろう。この人が、道端で物乞いをしていた人だなんて・・。人は変えられるのだと何時も此処で思う。

「もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(ヨハネ9:33)

パリサイ人に彼はイエス・キリストを教えた。イエス様を知っている者とは、学者の様な人達ではなく、イエス様にふれられた者だと感動を持ってよく分かる。

「彼らは答えて言った。『おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。』そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9:34)

イエス様を語るとき「お前は全く・・・」とののしられ、ひとつの社会から追い出されることもある。けれども、ののしられた彼は、自分には何の価値もなく、ただ憐れみを受けた者であることを良く知っているのである。自分を知らないのは裁いている者達である。

親も地域のつながりもすべてを失ったとき、イエス様は彼の前に来て下さった。イエス様は霊の目を開いてくださって、救い主を正確に知らせて彼を礼拝者として下さった。
「彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した。」


「そこで、イエスは言われた。『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」(ヨハネ9:39)

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