石ころ

息子と聖書を読む 2007.5.2


今日は、聖書を開いてゲッセマネのイエス様のお祈りから、十字架について午前中ゆっくり話し合う。

「イエス様が、ゲッセマネで血の汗をしたたらせるほどに、苦しんで祈られたのはなぜだろう・・。イエス様は父の神様とは何時も親密であり、聞かれない祈りはなかったのだから、3回も繰り返して苦しみ悶える祈りをされたのは、何ゆえだろう。」

「それは『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』とあるように神に見捨てられるからだろう。」

「でも、イエス様は完全に神のみこころに従って十字架に架かかられたのに、なぜ見捨てられなければならなかったのだろう」
「・・・」

「神様はイエス様のことは『これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ』といっておられたよ。」
「・・・」

「神様の目には、十字架上のイエス様は、もう『愛する子』ではなく、私たち、罪人とひとつになってしまわれたのじゃないかと思う。罪を負うと言うことはそう言うことだと思うから。イエス様のゲッセマネのお苦しみは、イエス様にとっては未知の罪の恐ろしさ、おぞましさに対する恐怖だったのじゃないかと思う。聖いイエス様にとって罪人とひとつになることは、私たちがどれほど汚れたものとひとつになるよりも、遙かに深刻な恐怖だったろうと思えるから。

神様が十字架の上に見られたのは、キリストと共に十字架に付けられた罪人の私だったと思う。聖い義なる神様にとって、罪人と交わることは有り得ないので、イエス様は見捨てられたのだと思うよ。

イエス様を死刑とされて、私たちの罪は完全に処罰され、人と神様を隔てていた幕屋の至聖所の幕が上から裂かれた時、私たちは神様に自由に祈ることができるようになったんだよ。だから、イエス様の十字架のあがないを信じる者は、イエス様と共に死んで、イエス様と共によみがえらされて、今は神の子ども!」

「イエス様は十字架で人類の過去、現代、未来の罪、すべての罪を負って下さったのだよね。」
「そう。そして神様はイエス様をよみがえらせてくださった。私たちもイエス様と共によみがえらされて新しく神の子として生まれた。そして今、父、子、聖霊の神と、イエス様の十字架の救いを受けた私の霊はひとつにされる。

この事実は、私たちがこの世で成功しても失敗しても変わることはなく、ほめられてもそしられてもそんなことで変わることはない。こんなすごい特権を頂いているのだから、もう私たちに足りないものは何もない。この恵みに付け加えるものなんて何もないね。」

息子と話している内に、私は自分自身に話しており、主の救いの素晴らしさに感動していた。仕事につまずきがあり、上司の指導にも関わらず、期限切れになってしまって結果を出せずに落ち込んでいた息子。誰でもイエス様に休むことが出来る感謝。


「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

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