石ころ

殉教(使徒6~7章)




ステパノはやもめの食事の世話をするために選ばれたことから始まり、イエスさまを現し尽くして殉教に至った。聖書に唯一詳しく殉教の様子が描かれた人である。

ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。
ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。
しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。

そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた」と言わせた。
また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕らえ、議会にひっぱって行った。(使徒6:8~12)

 ステパノはその真実な信仰のたまものゆえに妬まれ「神をけがす」という罪を着せられた。
肉性は感情によってすぐに一致し簡単に煽られて聖霊に逆らう。イエスさまを「十字架につけろ」と叫んだ感情である。

彼は真っ直ぐなことばによって、神に対する不従順を旧約聖書から簡潔に語り、先祖から今に至るまで神に逆らったことの改めを迫った。

「あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」(使徒7:53)

彼の言葉はこの時のために、日々蓄えられ備えられて来たものである。
通読するみことばはその日その日の備えとなり、積み重ねられたみことばは神のご計画を成し遂げる。
それらを用いて、時を計り照準を合わせてくださるのは聖霊である。
聖霊は些末なやもめの食事の心配から、完全なキリストの現れとなる殉教まで導かれる。キリスト者の寄る辺であり、まさに助け主である。

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。(使徒7:54~57)

人は聞きたくない言葉に耳を塞ぐことも、御わざに目を背ける事もできる。
此処には神に造られた人の中で最も美しい姿と、もっとも醜い姿がある。もっとも崇高なことばと、もっとも堕ちた言葉がある。
何を選んで生きるかは、 神が御子を十字架にたまわるほどの自由を与えてくださった中で、それぞれが選び取ることである。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。(使徒7:59~60)


彼らが怒り狂わせたのは、ステパノのうちにおられるイエスさまを、受け入れる事が出来なかったからである。「神を汚した」と訴えられたステパノの顔は輝いていた。それは内におられるキリストの現れである。
殉教はすべて尊いけれど、ステパノの死はそれを見ていたパウロの言葉の源を見るようだ。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ1:21)

ただ、今、ステパノの殉教に感動して「素晴らしい」で終わる事は違う。それなら一人の信仰の偉人で終わってしまって、それでステパノが喜べるわけがない。彼はキリストを生きてキリストを伝える人々のためのモデルである。

父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。(ヨハネ17:21)


「彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください」(新改訳2017)
ステパノのうちにいてくださる主は、すべてのキリスト者に居てくださる同じお方である。
「キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)
願うならステパノに居られたイエスさまを経験する。なぜなら神は真実なお方だからである。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事