私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(4~5)
イエスさまは十字架で、私たちの神に対する背きの罪をあがなって和解させ、すべての罪をその血潮で洗いきよめて、纏わり付く罪の重荷から解放してくださった。
それは、内住のキリストの義により、聖霊の導きによって主を喜び、ほめたたえて生きるためである。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。(6~7)
神さまから救いの福音を受けたキリスト者は、日々自分に向かってみことばを語り、反芻し、たまわった聖霊によってそれを消化し、骨肉となって拠って立つ所となる。
神の子とされたことを、事実として生きるかどうかは、その人が受けた福音をどのように扱うかに拠ることである。
確信をもって伝えるためには、生ける神のことばの真実を体験することが必要で、この世で生きる今日、みことばに自分の家族も財産もすべてをもって、飛び込むようにみことば通りに生きようとする時、主のご真実を経験させてくださる。主に在るストーリィの積み重ねが、みことばへの確信となって行くからである。
それゆえ、行いの無い信仰にはみことばへの確信はなく、みことばを語る時もあやふやで弱々しくなってしまうのだ。交わりのない方の責任を持てないのは当然である。
これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。(8)