石ころ

神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた マルコ15章(Ⅱ)




それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。(マルコ15:37~38)


 受洗の学びでこのみことばが幕屋の図を通して語られ、先生が驚かれたほどに深い感動を覚えた。
イエスさまが十字架ですべてを完了して息を引き取られたとき、アダムの罪以来の神様と人を隔絶してきた幕が上から裂かれた。交わりを隔ててきた至聖所の幕が天から裂かれたのだ。

イエスさまのあがないによって、十字架を信じる人は何時でも神様に近付くことができるようになったのだ。
この時私は、十字架上のイエスさまが息を引き取られる瞬間と、至聖所の幕が激しく上から裂けて行くさまが重なって・・、まるで見ていたようにリアルに感じられた。


 聖霊のバプテスマを11月に経験して心に大きな喜びがあり、それまで自分に許せなかった洗礼を願って、年が変わってから準備が始まり、実際に洗礼を受けたのは3月だった。

暗唱聖句が10以上示された。覚えるのは大変だったけれど、信仰の初めにみことばを刻み込むチャンスだった。
今暗唱することは無理でも、日々みことばを心や頭に染みこませる作業は続いている。今は、聖霊の解いてくださることが楽しいからだけれど、ただ教わったことに忠実な長い年月があった。

キリスト者の土台はみことば。聖霊はみことばを思い出させて導いてくださるから、みことばが内になくては信仰も世にある身も守れない。信仰のゴールが何処であるのかもわからないだろう。
御救いの喜びも甘い交わりもみことばにある。活字は心が揺れる時も変わることなく身近に居てくれる。白けて忘れていた感動がよみがえるのもみことばを読み返している時・・。

「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」そのことによって、キリスト者にたまわったものは御父、御子、聖霊の臨在。十字架で完了されたみわざによって、どのような状況でも恐れることなく御名を呼び、主は近しく応えてくださる者としてくださった。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩編23:6)

神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。(Ⅰヨハネ3:24)


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