石ころ

十字架から降りて来たら信じる マタイ15章(Ⅰ)


 

 ピラトはイエスさまを無実と知っていながら、群衆の機嫌をとるために十字架刑を宣告した。
ヘロデはバプテスマのヨハネの正しいことを知っていながら、満座で恥をかく事を恐れて首をはねさせた。
彼らはそのことによって、自らとその周囲に滅びを招きこそすれ何も守れなかった。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

キリストの救いを得るためには、今のわずかな平穏無事を捨てる勇気が必要である。御救いはただ信じるだけで与えられる。
しかし、行いのない信仰はない。行いは時に家族を捨て、友人を捨て、世の評判を捨てる恥の中でイエスさまを選び取る。
ただ、ご安心を!すべては主のご真実によって主の家族として回復される。イサクのように・・。

 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。 十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。 キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」


確かにその通りである。イエスさまは唯一ご自身は救われなかった。命を世の手に任せら、サタンはキリストを殺すという勝利を得た。
人々はキリストに、「自分を救って、十字架を降りて来たら信じる」と言った。しかし十字架を砕いて無傷で降り立ったら、その方は神であっても救い主ではない。キリストではないのだ。

イエスさまは十字架で死ぬことによって、キリストとして人の罪をあがなって滅びから救うわざを完成してくださった。すべては愛と憐れみに拠ることである。
サタンはキリストを殺して、神様による人の救いを妨げようとしたが、彼には愛も憐れみも無いものだから、神様のこのような計画は思いも付かないことだったのである。

世は勝利者にあこがれて喝采し、成功者を喜んでリーダーにしようとし、金持ちに集まっておこぼれに与ろうとする。
しかし、金持ちはすべてを自分にかき集めるから金持ちなのである。人に与えたなら貧しく、人に勝たせたら敗者となり、人の成功に尽力する者は影に居る。人は求めるものを間違えている。騙されている。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(Ⅱコリント8:9)

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6~8)

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