石ころ

良い地


 群衆はイエスさまに群がって来た。そうして、たとえ話を聞いて去って行く。彼らは何に満足したのかだろう・・、噂の人を見ての満足なのだろうか。
彼らは見ても聞いても悟らないとイエスさまは言われた。

時にはイエスさまにずっと付いて来る。イエスさまが心配をしてパンをお与えになるまで・・、彼らはパンに満ち足りたけれど、再び空く腹を抱えてイエスさまを探し求めるようになった。
まことのパンである主ご自身を食べないかぎり、今も人は満たされることはない。

イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。(マタイ4:4)


 弟子はイエスさまのことばの前に残る者である。
霊のことばを受けようとするなら、常にイエスさまの前にいなければならない。奥義を得て霊が安息するまでは満足してはならない。
イエスさまは教えてくださる。
時に、みことばの成就を目で見せ、細い御声を聴き取るようにとすべてを用いて話しかけ続けてくださる。



 種まきのたとえでは、道ばたに落ちた種は鳥に持ち去られ、人に踏みつけられた。
聞くだけの信仰の不用心さを思う・・。みことばは聞くとそれを消化して、霊の宝物庫に仕舞うものである。いつでも持ち出せるように自分のものにしておくこと。
消化できないときはそれを反芻しているべきであり、放り出しておくものではない。みことばをいのちの宝だと知っているならそうするはずである。

岩地に落ちた種は、根がないために枯れてしまう。
神の言葉を柔らかな心で聞くことの大切さを思う。聖書の言葉は、そもそも人の言い伝えや、人の教えによって知るものではない。

事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(Ⅰコリント1:21)

 植物にすぐれた肥料を与えてもそれだけでは育たない。その養分を吸収するには水が必要なように、聖書をどれほど読んでいても、聖霊によらなければ霊の成長には結びつかない。
小さな種であっても、根はひとり地の深みに水を探し求めて伸びてゆくように、キリスト者であれば、直接聖霊による導きを求めなければ成長は望めない。

なぜなら、直接聞く教えには混ぜものがなく、一人ひとりの時に叶って、その人の必要に応じて開かれるから・・。主のお導きは完全な個人指導。

 主によって常に耕されていなければ、やわらかな良い畑とはならない。それは放っておくと固まってしまって、空気を失い、水を含むことも出来ないほどになってしまう。
キリスト者にも、神の息、神の霊が、絶えず吹き込まれることが、成長と安息のために必要なのだ。


 私たちが、主から受けた教えを互いに持ち寄り、聖書に照らして共に味わう時共に成長して行くだろう・・。
主の主権の前に恐れることを学び、主の好みを知り、主のみこころを悟るようになるだろう。

真にみことばだけが語られるなら・・世においてはまったく違う者同士が、同じイエスさま色に染まって行くのだろう。
ずっとそのようなものを渇望しているのだけれど・・。

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