石ころ

的を射る願い(マルコ10章)

 

 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。(13~14)

 

子どもたちを連れ来た人はイエスを慕って、子どもに触れて頂こうという思いであった。それはイエスをお喜ばせることである。
今もイエスに触れていただきたくて、愛する人を連れて行くならとても喜んでくださる。

 

まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(15~16)

 

イエスに行くことを喜んで付いて来る人は、聖い子どもの心を持ってのことである。その心をイエスはどれほど喜んでくださることであろう。
人は役に立つ働きのある大人を求めるが、イエスが求められるのは、素直な幼子の心を持つ者である。

 

 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」(17)

 

彼はイエスを良い(尊い)先生と呼んだが、その存在を「何ものにも代えがたい」と知って呼んでいたら、この後は変わっていただろう。
彼は律法を完全に守っていると自負しており、礼を正してひざまずき「永遠のいのちを得るには何をすれば良いでしょうか」と、自分の行うべきことを求めたのである。

 

イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(21)

 

イエスが惜しまれたその人は、多くの財産のゆえに悲しみながら去って行った。彼は何のために律法を守って来たのか、永遠のいのちを得るためであろう、それなのに世の財産を惜しんで永遠のいのちを諦めて去ったのである。

 

これはあきれるほどの愚かさである。それらをより価値のあるものと引き換える自由がなければ、支配しているのではなく奴隷であり、彼らには自由が無いことになる。世での栄えは人を虜にして、世のものに支配される不自由のうちに滅び行くことになる。
せっかく威儀を正して救い主に出会い、みことばを頂いても、それを行う自由が無いからである。

 

「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」(25~27)

 

自分の行いによって神の国に入れるという勘違いをさせるのは世の栄光である。金持ちは世ではなんでもできる。律法を守ることも貧しい無学な者よりは、その恵まれた環境によってはるかに易しいことである。しかし、神の国は世の栄光の上に積み上げるものではない。

 

ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」(28)

 

弟子はみな、イエスが「来なさい」といわれたとき、即座に職業も家も家族も捨てて付いて来た。それが出来る聖さこそ、始めに神が選んだ者の証である。その瞬間の行動には、世と天を天秤に掛けるような駆け引きは存在しないからである。

 

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、
今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。(29~30)

 

これは、イエスについて行く者に約束された褒美である。この世でも、百倍の霊の家族を得ることも約束されている。しかし迫害はあるのだ。
世の安穏は望めないことであっても、イエスが死からよみがえられた時、信仰者には、迫害の中に在るキリストの平安を備えてくださった。

 

 イエスは十字架に向かって行くことをはっきり話された時、ヤコブとヨハネは、イエスが権威を揮って王となられる日が近いと勘違いをして願った。

 

ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」(35~37)

 

彼らは、イエスが栄光を受けられる十字架の右と左を願ったことになる。それは強盗が準備されていた席である。


イエスは彼らの受けるべき褒美を約束しておられる。それは迫害と、永遠のいのちと、イエスのために捨てた家族兄弟を、霊の家族のうちに百倍を受ける祝福である。彼らはみことばを覚えて心にとどめていなかったので、願うものを間違えた。

 

しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。(38~39)

 

ヤコブは十二使徒の中で一番に、イエスの殉教の杯を受けて殉教し、彼の誓いは果たされた。
人の弱さや愚かさを知り尽くすイエスは、祈りを導く聖霊を私たちにおくってくださった。今、私たちにはみことばを覚えて的を射る祈りに導いていてくださる。

 

 一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。(46~48)

 

バルティマイがイエスを呼び求める姿は、まさに子どものようである。たしなめられても制止されても止めずに叫んだ。私たちがキリストを必要とする必死さも、本来このようであるはずだと思う。

 

天の御国を求める願いはなをさら、威儀を正し己を完成して願い出る余裕など無いのだ。「私をあわれんでください!」と叫ぶ他ない。

 

イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。(49~50)

 

乞食にとって脱ぎ捨てた上着は、唯一身を守るプライドであったろう。イエスに呼ばれた時それを捨てて、子牛のように喜び躍り上がったのは、願いはすでに叶えられたと知ったからである。それはイエスに対する信頼である。

 

イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」(51)

 

人目もなくイエスを求めて叫ぶことができるのは、唯一の希望であるからだ。
その時、己を忘れて「目が見えるようになることです」と叫ぶのである。私たちも日々、みことばを読む霊の目が見えるようにと願い求める者である。

 

そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。(52)

 

「あなたの信仰」は最上のほめことばである。この言葉を聞くことはなんと幸いなことであろう。それは目の癒やしだけのことではなく、その存在を認められたことであり、交わりの中に置いてくださることである。


求めるものが的を射るとき、イエスは私たちの信仰を保証して、願いのままに叶えてくださる。

 

それはどんな態度で求めたかとか、それまで律法を守って来たかなどは無関係で、ただ、イエスをどのような方と信じたかということである。
目の見えない彼はイエスの噂を聞いて、単純にそのわざによって信じ、イエスを求めて一歩も引かなかったのだ。そう、彼は去って行かなかったのである。


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コメント一覧

ムベ
soraさんコメントありがとうございます。
私はまだ習ったことがないのです。
こちらこそよろしくお願いいたします。嬉しいです。
sora
私は、短歌を習い始めたばかりです。
どうぞよろしくお願い致します。
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