大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」
そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」
すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」
すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。(マルコ14:61~64)
十字架刑はイエスさまのひと言で決まった。ご自身を神のキリストと語られたことで、神を冒涜する罪人と定められたのである。
それまでの無実の訴えにはひと言も弁解されず、ご自身をはっきりと語られたひと言で死刑と決まったのである。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(ヨハネ14:11)
イエスが行なわれたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。(ヨハネ21:25)
わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。(マルコ14:49)
書ききれないほどのわざを見ており、直接に語られるメッセージを聞いても、人は信じないことを選択することができるのである。
それは神様が人を創造された時、自由意志を与えられていたからである。もし、神を否むことがない者として造られたのなら、愛するひとり子を十字架にかける計画をされた神の悲しみと、御父に捨てられる御子イエスの苦しみは必要なかったであろう。
しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。(イザヤ53:10~11)
イエスさまの満足は、自分の意志によって十字架のあがないを信じた者が、罪から解放された平安のなかで、永遠のいのちを得て末永く生きることにある。
だから、この十字架の恵みを無駄にしないで・・と願いつつ、人にはおろかと思える十字架の言葉を、聖霊に信頼してそのままに語るのである。十字架の刑を帯びて語るのである。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)
無実のイエスさまがそうされたように、裁きを世に任せてはっきりと聖書を語るのである。
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