石ころ

イエスは尋ねる者には答え、訴える者には沈黙される。(マタイ27章)①





さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです」と言われた。
しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。(マタイ27:11~12)


イエスさまは、尋ねるピラトにはご自身を示して答えられた。ユダヤ人を救うために来られた王であることを・・。しかし、訴え、非難する言葉に対しては口を開かれなかった。主の沈黙は此処にある。

人には神のご計画は理解出来ない、理解出来ないから反発をする。それは知識の渇きではなく感情に拠るものである。
その怒りは、聖霊に拠って神をわきまえることがなければ、治められないものである。

だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。
そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:23~25)


彼らは子孫に、イエスさまの命と引き変えられたバラバと、十字架の血の責任を残した。
人は、わざを見ることだけで信じることはできない。
たとえわざによって癒されても、人の心は何時でも変わる。ホサナと叫んだ後で、十字架につけると叫ぶ者でもある。聖霊に拠る絶えざる主との交わりに在って、みことばを食べ続けていのちを保つ者である。

それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。(マタイ27:27)

争うことも、ご自身を弁護されることもないイエスさまの前に、全部隊を集めて、

イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せ、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。(マタイ27:28~30)


人の権威に立って、兵士は神のわざを成さる方を弄び楽しんだ。彼らにイエスさまが「どんな悪い事をしたのか」と考える者はいない。癒された多くの人を思い出すこともない。それが群れの力である。神のわざに勝かのようなサタンの祭りである。

同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」(マタイ27:41~42)


宗教者は十字架のイエスさまを罵る言葉によって、彼らのすべてを暴露した。他人を救って自分を救えないことは、彼らには無価値なのだ。
彼らの賢さは自分を救うことであったが、イエスさまは、罪をあがなうためのいけにえとなって、彼らさえも救おうとしてくださった。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事