若い頃はずっとクリスマスはクルシミマスだった。何も持たないことがひとしお身に染みて淋しい季節だった。
プレゼントも家族も居場所さえなくて、クリスマスソングもショウウインドウーの煌めきも私には無関係であった。
両親も祖父母も亡くして、空虚さの中に生きる意味がわからない時だった。
結婚によって家族を得たことは、自分の命を得たように大切な嬉しいことであった。だから夫は配偶者でもなく連れ合いでもなく、私の主なる人であった。たとえ喧嘩して言いあっていても、私を必要とする人がいる事は幸せであった。
長男が結婚記念日に産まれ、次男は私と同じ12月に産まれ、長男が結婚して嫁さんにも孫にも恵まれた。
今朝、祈りの後「キリストさんが粛々と・・」ある方から頂いた言葉に思いを巡らせていた。
その時、一つの事実に気付かされた。クリスチャンの母が私を産んだ時、クリスマスイブの誕生をただ素直に喜んだであろうことに・・
「雪が降っていたから、雪子って名付けよう」と、そんな母の思いを聞いたことがあった。
安易すぎて却下されムベになったけれど、そこには父の思いも感じられた。
心臓弁膜症の母にとって命がけのお産だったかもしれない。病院で産んだと聞いたが窓に降る雪に目を留め、幸せを祈ってくれていたのかもしれない・・。
今私は両親の倍生きて、ようやく自分の命の価値に気付くことができた。
イエスさまは、私の愚かさを負って苦境には脱出の道を備えてくださり、私にとってクルシミマスであった時も、主の良き計画は粛々と進んでいて、祖父母や父母の祈りは聞かれていたのだろう。
生きるための手段を何も持たなかった私を、神様がこの日まで生かしてくださったから・・。
主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました。(哀歌3:58)
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