石ころ

御名を呼び求める者は、だれでも救われる




 危急の時に近付いてくださったイエスさまに、「なんと祈ればよいのだろうか」と心配することは無い。イエスさまを思い出したということは、すでにすべてをご存じで来てくださったからである。

聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ10:11~13)

 私は「イエスさま」と叫んでから信仰生活に入ったのは30年も後であったけれど、その間も、良い時も悪い時もイエスさまの眼差しの中に守られていたことを後に知った。
主は私の力が尽きるのを待っていてくださった。それは自分の方法で行い終えるのを忍耐を持って待っていてくださったのだと思う。

 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。(ヨハネ21:7)

イエスさまを3度も知らないと言ったペテロは、よみがえりのイエスさまを知らされた時、湖に飛び込んで主に近付いた。まるで洗礼によって新しく生まれ変わる者のように・・。
弟子は失敗をしないように生きる者ではなく、どんな時でも主に駆け込むことができる者なのである。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)

イエスさまは、ペテロに3回愛の告白のチャンスを備えてくださり、力と新しい使命を与えられた。失敗によって学ぶことは神の良いご計画によることである。
そうして、ペテロは神の栄光を現して死んだ。

御名を呼ぶとき誰にでもイエスさまは来てくださる。何時でもチャンスを備えてくださる。なぜなら、十字架で聖き血を流して買い取られた命だからである。

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