石ころ

日曜日にはイエス様のお話を聞く 2007.7.8


saltさんのメッセージ「自分の足でまっすぐに立ちなさい」使徒14章

 パウロとバルナバのふたりは、ピシデアのアンテオケを追い出され、東へ約80キロ離れたイコニオムへ移動します。ここでも、大勢の人たちが信仰に入りました。しかし、一方では、「信じようとしない人たち」がいました。(使徒14:1~2)

 13章で「自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めた」(使徒13:46)「永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った」(使徒13:48)と言う二つの文から、みことばが聞いていた人たちを二分したことを見ましたが、ここでも状況同じでした。

 これらの記事を見るとき、まっすぐに語られたいのちのことばは、心地よく聞き流せるようなものでも、すべての人に歓迎されるようなものでもなく、聞く人たちを混乱させる結果を招くことがわかります。聖書の真理に対して、ある人々は激しく反発し、攻撃するようになるのです。

 そのことを検証するため、ヨハネの福音書から具体的な場面を四箇書見てみます。イエスさまが奇跡を行っているときは、人々は次の奇跡を待ち望みました。また、道徳について語られると「それはよい話だ」と耳を傾けました。しかし、悔い改めやいのちに関する本質的なことについて話が及ぶと、今まで喜んで聞いていた人たちが、見事なほどに混乱する様子が描かれています。イエスさまがメッセージの核心に迫られると、直ちに、議論が巻き起こり、激しい対立が始まるのです。

 例えば、イエスさまがパンの奇跡をなさって、その意味について解き明かしされた場面ではどうでしょうか。「パンの奇跡は、ただ飢えた者の腹を満たすことが目的ではなく、まことの食べ物はイエスご自身の肉であり、まことの飲み物はその血であるのだ」という趣旨の解説をされました。聞いていた人たちの反応は次のとおりです。 

「すると、ユダヤ人たちは、『この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。』と言って互いに議論し合った。」(ヨハネ6:52)
さらに
「そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」(ヨハネ6:60)
と反発します。そして、
「こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:66)
と書かれています。

 また、イエスさまが後に注がれる御霊について証されると、ここでも分裂が起こりました。
「このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、『あの方は、確かにあの預言者なのだ。』と言い、またある者は、『この方はキリストだ。』と言った。またある者は言った。『まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。』そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。(ヨハネ7:40~43)

 生まれつきの盲人が癒された場面でも、盲人が見えるようになったことを喜ぶのではなく、そのことが安息日であったことにこだわって分裂が起こります。
「すると、パリサイ人の中のある人々が、『その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。』と言った。しかし、ほかの者は言った。『罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。』そして、彼らの間に、分裂が起こった。」(ヨハネ9:16)

 そしてイエスさまが自分からいのちを捨てるのだと語られたときにも、当然分裂が起こりました。「このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。」(ヨハネ10:19)

 これらのイエスさまを取り巻く人々の反応を見ても、いずれの場合も、真理が語られることによって、それを聞いた人たちが見事に二分されていると分かります。真理に従う人たちには自由が保障され一致が生まれますが、その裏側では真理に従う人たちに敵対することによって偽りの一致が生まれる構図があることがわかります。(使徒14:4)

 おそらく、ルカは福音書に記したイエスさまのことばを思い返したはずです。
「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」(ルカ12:49~53)

 イエスさまが投げ込んだ火とは何でしょうか。イエスさまは、燃えていることを願っておられるのです。ルカの福音書の文脈から見れば、それは、
「目を覚ましていること」(ルカ12:37)「主人の心を知り備えをしていること」(ルカ12:47)
とつながります。つまり、そこに聖霊の支配があり、具体的に信仰を働かせていると言うことです。そして、そこに分裂が起こるのは、生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れる事が出来ないからです。(Ⅰコリント2:14)

 私たちが、この世の知恵ではなく、御霊のことばを語るなら、生まれながらの人間は、これに強く反発します。逆に言えば、生まれながらの人間が葛藤もなく、反発もせず、心地よく聞けたり、聞き流したりするとしたら、それは、御霊のことばではなく、この世の知恵なのです。パウロとバルナバは、御霊のことを語っていたので、信じる人たちも獲得しましたが、同時に彼らをはずかしめ、殺そうとする人たちも現れます。(使徒14:5)
 
 ルステラで生まれながらに足のきかない人がいました。この人はパウロの話に耳を傾けていました。そして彼に「いやされる信仰があるのを見た」のです。

 パウロは大声で言いました。「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」(使徒14:10)生まれながらに自分の体重を支えたことのない足です。きっと筋肉もなく、細くて短くて弱々しい足です。誰の目にも、とうてい使い物にならないと見えたに違いありません。信仰と言うことを無視すれば、自分の力で一歩も歩んだことのない人に対して、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」ということばはあまりにも思いやりを欠いた残酷なものです。

 ところが、「彼は飛び上がって歩き出した」(使徒14:10)と書いてあります。ゆっくりよろめきながら、歯を食いしばって歩き出したのではなく、飛び上がって歩き出しのです。この後、群衆はパウロとバルナバを祭り上げる大騒ぎをしますが、そんな気持ちになるほどの奇跡でした。

「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」ということばは、もちろん、このとき、この男に対して、個人的に語られたことばです。しかし、私は主がすべての信じる人たちに語っておられるように思えるのです。

 イエスさまは、38年間病気だった男には、「良くなりたいか」とおたずねになり、「起きて、床を取りあげて歩きなさい」といわれました。
 また生まれつきの盲目の人には、その目に泥を塗り、「行ってシロアムの池で洗いなさい」と命じられました。

 これらの例には共通点があります。すべてのことは、主がしてくださいます。いっさいが恵みです。しかし、信仰にはただ受け身ではないのです。信じた者は、自分が信じたことを表現する必要があります。神は私たちをずっと受け身でいさせるようなことはありません信仰は「棚からぼた餅」のような祝福を受けるようなことではありません。よみがえりのいのちによって立ち上がり、イエスさまとともに歩むのです。

 いつまでも、自分の足で立とうとしない人がいます。その人は、自分の足がいかに不自由かを詳しく語ります。今まで自分は一度も自分の足で立ったことはないし、真っ直ぐになど立てるわけがないと考えています。そして「誰か自分を支えて立たせてくれたらいいのに」「誰かが手を引いてくれるべきだ」と思います。そして挙げ句の果てに、「神さまは自分をこんな足にして、その上、立たせてもくれない」と言うのです。
これでは全く状況は変わりません。

 自分の現状から出発して考えていたのでは、足なえは何時までも歩けず、依然として病気は治らず、死ぬまで目は見えないままです。すべてはみことばから出発し、みことばの約束を握って一歩踏み出すことです。

 私たちは萎えた足で立ち上がることができます。一歩も歩いたことのない足で、飛び上がることができるのです。自分の中の可能性はゼロです。ただ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」という命令に力があるのです。それが主によって出来ると信じれば出来るのです。信仰とはそういうものです。丈夫な足で飛び上がってもそれは、丈夫な足の力です。一歩も歩いたことのない萎えた足で飛び上がり、歩き出すから、それは主の力なのです。

その奇跡を見た群衆は、パウロとバルナバにいけにえを捧げようとしました。それは、間違っていました。
癒された本人には信仰がありましたが、それを見ていた群衆には信仰はありませんでした。確かな主のわざを見ても、それが正しく理解され、評価されるわけではありません。生まれつきの人間は、現象を賛美し、人間を崇拝します。目に見えるものにしか反応できないのです。

 イコニオムでは石打ちを逃れたパウロとバルナバでしたが、ルステラでは、そう言うわけには行きませんでした。神様扱いされて、的はずれな賞賛を受けたかと思えば、群衆に囲まれ、石打ちにされ、死ぬほどの目にあっています。(使徒14:5~6、19)

 これは、とても不思議です。神様は何時も災いから守ってくださるわけではありません。パウロは、この問題に関しては、次のように語っています。
「私たちが神の国にはいるには多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)

 私たちが聞いた福音は、家族を分裂させ、多くの苦しみを経験させるものです。本当に聖書が語っていることは、調子の良い人集めのキリスト教が言っていることとなんと異なっていることしょう。

 私たちが語らなければならない福音は、イエスさまご自身です。それは、人となられた神の御子キリストの人格なのです。イエスさまという御方から切り離された祝福や恵みではありません。哲学でも道徳でもありません。教えではなくいのちなのです。

 アンテオケに戻ってきたパウロとバルナバから、残っていた弟子たちは、異邦人に信仰の門を開いてくださったという報告を受けました。(使徒14:27)しかし、弟子たちはその嬉しい報告と共に、石に打たれた痛々しい傷跡を、ふたりの顔やからだに見たはずです。
パウロは晩年に、この時期を振り返ってこう語っています。
 
「またアンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主はいっさいのことから私を救い出してくださいました。確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:11~12)

 ですから、時に、逆風が吹き荒れ、つらい思いをするのも当然なのです。しっかりその中で、立ち上がり、イエスさまとともに歩みましょう。信仰の力が無力に感じるときがあるからこそ、パウロは「しっかりと信仰にとどまるように」勧め、弟子たちの心を強めたのです。
「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、『私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。』と言った。」(使徒14:22)

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コメント一覧

石ころ
Koji様
コメントを感謝致します。
私たちの試練の時、主はハラハラと何時でも手を出せるように見守っていてくださるのだと思うと、ちょっと主に虚勢を張ってみたりして・・「ほら、大丈夫ですよ」なんてね。

パウロが石に打たれて死にそうなのに、すぐに歩き出した姿に、私はそんなふうに思いました。愛されていることを知ると、強くなれるのですね。
また、お会い出来る日を楽しみにしております。


ラベンダー様

お帰りなさい!!お待ちしていました。
私から見ると、宇宙ほどの遠くから無事にお帰りになって、お元気なコメント嬉しいです。
また、「潮騒を聞きながら・・」にもお邪魔させて頂きます。」
楽しみが再会です。
ラベンダー♪
お久しぶりです
石ころさんのところに来るとホッとします。

またこれからもよろしくお願いしますね♪
Koji
昨日は、共に礼拝を持てたこと感謝でした。
交わりの時間も、すばらしかったです。

助走が長ければ遠くに飛べるように、抵抗する力が、苦しみがあることも主の配剤なのかもしれませんね。飛行機は、抵抗があるからこそ飛べるのと似ているかもしれませんね。

メッセージを聞きながら、こんなインスピレーションを与えられました。

それでは、またお会い出来る時を楽しみにしています。

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