石ころ

詩篇91篇に生きるとき

 

いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。
主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。

主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。
あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。

千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。
あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。
それはあなたが私の避け所である主を、いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。
まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。
彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
あなたは、獅子とコブラとを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。

彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。
彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。(詩篇91:1~16)

 

 「教会は携挙によって天に上げられる」黙示録の艱難を恐れる者に素晴らしい教えであり、恐ろしい苦難に合う必要が無いことをかっては素直に喜んでいた。

しかし・・それは私が経験した主の方法とはずいぶん違っていて、キリストの平安や生きて働くみことばを経験したプロセスとは、なんか相容れないようで違和感を覚えだした。無知な私には「・・主義」とかは幾ら聞いても理解できないので、自分が経験した信仰を通して判断するしかなく・・。

 

細やかな経験や神の憐みによる日々の導きに頼る者が、知識もないままに大きなことを判断するのは違うかもしれないけれど、今日まで聴いて来た御霊が与える感覚は、完全には理解できない教えを呑み込むことが出来なくなって来たのだ。

 

今生きている所は、クリスチャンでもすべて世の人と同じ問題や困難の中に在る。しかし、みことばによる導き、祈りによる助けや平安の経験によって、聖霊に導かれるみことばを生きることで、世と同じではないキリスト者の希望を証ししている。

 

在るがままの罪深さや無知を曝け出しながら、そのような者に対するキリストの忍耐深い愛の存在を知らせ、弱さの中に働かれる主が神の子の特別なことを現わさせて下さっていると思う。
キリスト者のうちに居られるキリストの光は、真っ暗になる艱難の中にこそ最大に、主の守りと救いを指し占めすことになるだろう。

 

クリスチャンが、試練を通ることは恐れることでは無く、そもそも常に艱難や試練は身近にあり、キリストの平安を味わう場所も此処にある。
罪の世のあらゆる問題の中で、主はみことばを通して安息を与え、どのような時も祈りによる避け所が用意されてある。

 

主に在る者には艱難は生ける神のことばを経験する場所であり、困難の中にひとり立っているとき、主はハラハラと見守っていてくださることを知っている。その眼差しには平安と勇気を与える力がある。

使徒たちの殉教の折も、きっとそのような臨在による清らかで甘いお交わりがあり、感謝と喜びに満たされて輝いておられたであろうと思う。
詩篇91篇を実際に生きることになるなら、それはどれほど主を知る経験となることであろう!


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