石ころ

礎の石 (ルカ20章)




イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:17~18)新改訳


親石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、礎の石に落ちる者のすべては粉々に砕ける。それは「誰でも」とあるので、落ちるなら砕かれるということである。自分を砕くことができないから主に拠るのだ。

しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。(詩編51:19)


砕かれて、その粉の中に主を愛する細かな愛を見つけて頂けたなら、なんと幸せなことだろう。それはすべてを犠牲にしてあまりある光栄だから。
主に飛び込むように自分を捨てるのは信仰に拠ること。でも信仰とは「神の憐れみの中に居る」ことだと思うから、落ち行くときも平安があるのだ。


 ニコデモは、夜そっとイエス様の家に来て砕かれ主に落ちた。主に落ちるのはひとりであることが必要である。ニコデモがファリサイ派の人々と相談したならそれで終わりだ。マリヤがひとりでイエス様を受け入れたように、飛び込むのである。

主を捨てた者には自ら落ちることは選べず、主がその人の上に裁きをもって落ちることになる。それはその人を「押しつぶし」(新共同訳)「粉みじんに飛び散らせてしまう」(新改訳)とある。
救い主から散らされることは裁きであり滅びである。

創造主なる神によって造られた命は神のもの。私たちは御子の相続財産なのだ。主に霊、魂、体、そうして、命のように大切な計画もお委ねするものである。
今、私たち一人ひとりに言われている。

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(ルカ20:25)新改訳

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