今日は、紅しだれもみじの選定をした。このもみじは真っ赤な柔らかい新芽が出て、枝が流れるように垂れるもので、美しいので大切にしている。
主人がやると、枝打ちのように切ってしまって、枝の流れが台無しになってしまうから、自分でするほかない。
不要な小枝を一本一本選んで手折る。それも、重なった枝の下に潜るようにして、流れに逆らう枝を探す面倒な作業なので、確かに主人には向かない。
時間はかかるけれど、選定の済んだ部分から風が流れるようになる。
葉先をサラサラと揺さぶって、残された枝が心地よさそうに揺れ、混んだ葉の中に隠れていた太い枝が見えるようになると、見通しも良く、もみじのすっきりとした立ち姿が現れる。
今年は選定がちょっと遅くなったので、風通しが悪く毛虫が発生していた。
危うく掴みそうになって、「キャー」と言いたいところをグッとこらえ、恐る恐る作業を続ける。
続けるのはこの木に対する愛着があるから。そうでなかったら投げ出していた。虫は大嫌い。本当は恐い・・まして毛虫はかぶれるかも知れないから。
でも、手袋をするわけにも行かない。だって指の感覚で、小さな枝をポキッと折るのだから。
ほとんどできあがったところでパラパラと雨が降ってきた。焦ったとたん、枝を切っていたハサミで指まで切ってしまった。
鋭い痛みに全身がぞっと泡立つ。ハサミの汚れが気がかりなので、痛みをこらえて石けんで傷口を洗う。
血と傷口を見たとたん、足がすくむような大げさな体の反応。傷はそれほど大したことはないのにと冷静な頭と、体の大げさな反応?
今朝はヨハネ15章を読んでいた。
「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」
私たちが刈り込まれるのは、実を結ぶ可能性があるからなのだ。実を結んでいる者であっても、もっと実を結ぶために刈り込みをされるということが書かれている。
刈り込みの覚悟をもって、主につながっていることはキリスト者の大前提。
刈り込みって現実的にどんなことなのだろう・・それぞれだとは思うけれど、ぶどうの木の選定は丸裸に近い刈り込みに見えた。
人にとっては、あるいはメンツ丸つぶれのような事、積み上げたものをすべて崩されることなのかも知れない・・。
でも、私たちが神様の刈り込みを恐れることはない。
それは、私がもみじに執着しているにもはるかに増して、神様は十字架で御子の血潮という、尊い代価が支払われた者を、どれほどにか大切に扱って下さってのことだから。
なにしろご真実なアバ父による、子への訓練なのだから。ハレルヤ!
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