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石ころ

肉には拠らず

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37)

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。(ヨハネ6:44)

『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。(ヨハネ6:45)

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。(ヨハネ53~55)


イエスさまはどうしてこのようなおっしゃりかたをされたのだろう・・聖書を読んでいてそのように思うことが時々ある。
でも、そのように話されたイエスさまの言葉遣いには、深い理由があるのだろう・・。

そのように思い巡らせていたら、ひとつの答えが浮かんできた。イエスさまの言葉、みことばを肉に吟味させてはならないのだと。
それは霊のことばなのだから、逃げ道を作ったり言い換えたりしないで、そのことば通りに受け、何も付け加えたり差し引いたりしてはならないのだと・・。

でも、肉は霊を激しく否むものだから、どうしても受けれなければならない時には、すっかり言い換えて納得しようとしたりする。「これは十字架を指しているのです。」と言って納得させる。

肉の言う清さと霊による聖さは違う。霊による聖さとはひとえに主への従順であり、肉による清さは見た目である。肉は見た目によってイエスの血と肉を嫌悪する。

誰が永遠のいのちに至るのだろうか・・それは、肉によって飾り立てられたものからは遠い。
神に選ばれた者は誰だろう・・
しかし、主は如何ばかりか与えたいと願っておられる・・

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:16.17)

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コメント一覧

石ころ
「今の世とは全く違った別の領域があって、その中で今 生きているということ。
そして、いつもイエスの肉を食べ血を飲んでいるということ。」
アーメン アーメン

わからないことばかりです。
でも、霊の深いところで何かが分かっています。
何時かもっとはっきりと、見るでしょう。
とても、楽しみです。
保護者
肉を食べ、血を飲む。

これは聖餐式に参加することではなく
また、肉体となって世に来られた人の子であるイエスの命を自分のものとして生きようと努めることでもない。

ただ分かっていることは、
今の世とは全く違った別の領域があって、その中で今 生きているということ。
そして、いつもイエスの肉を食べ血を飲んでいるということ。

「・・私が父によって生きるように 私を食べる者も私によって生きる。」(ヨハネ6-57)

不思議な御言葉です。

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