石ころ

悪いことば(エペソ4章)

 

 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。(エペソ4:29)


キリスト者にとって悪い言葉とは、みことばを否定する不信仰な言葉。それは主を悲しませる。
また、霊や魂を汚す他人の悪口や噂話などがある。人がそれを口にするのは、公の場所や目上の人に会っている時ではなく、最も多くの時間を過ごす家庭や友人の間である。


だから、そのような習慣を家庭に持ち込むと、気を許す中で互いに罪の感覚は鈍くなり、聖霊の臨在を妨げて祝福を失って行くことになる。
また、それはサタンの足台となって絶えず良心を責められ、家庭には平安が無くなってゆくのだ。

主は家族ぐるみを祝福される。最も長い時間を過ごす家族の中に、聖霊は働いていてくださり、日夜語りあうみことばのご真実を、共に経験させて信仰を成長させてくださる聖なる場所である。


神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ4:30)


 なぜ人の悪口をいうことがいけないのか、そのことが聖霊を悲しませてみことばを否定する行為であり、敵につけいる隙を与えて祝福の時を失うからである。
人が悪口を言うのは、無意識に自分の正しさを証明しよとしてのことであるが、神によってすでに聖とされている者には、何人とも比べる必要はないのだ。


ただ、恵みを与えるみことばを語り合い、主を賛美する大いなる恵みの時間を、敵に奪われてはならない。
戦うべき敵を間違えてはならない。悪を裁かれるのは主であり私たちは裁判官ではない。ただ同じ事をしなければ良いのであるが、それさえも語り合う必要は無く、聖霊のバリヤーの中に在れば悪に染まることはないのである。


祝福を受けた家庭であるのに、みことばを排除し聖霊を閉め出して、世の楽しみを持ち込むなら、どうしてそこに主の礼拝が存在できるだろう。何処に、みことばの感謝と賛美の祭壇を据えることができるだろう。


そのことで最も深い傷を受けるのは弱い子ども達である。大人なら遮って黙らせ、自分を守ることもできるが、未熟な子どもたちは、耳の汚れの中に居続けなければならないのである。
夜に悪口を言っていた相手に、昼には笑顔で話す姿は卑しい。そのような偽りの姿を見せられる子は不幸である。


舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。(ヤコブ3:6)


言葉はキリスト者を絶えず試している。主の祝福も、サタンのわなもそこにある。
敵に家族を持ち去られないために、しっかり戸締まりをするべきは口であり、人を貶める舌である。貶められているのは話している自分自身であり、聞かされる家族だからである。


神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。(エペソ4:30)


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