石ころ

日曜日はイエス様のお話を聞く 2007.4.15


saltさんのメッセージ「私にあるものをあげよう」 (使徒3章)

 使徒の働きには、初代教会の様子がリアルに描き出されています。必ずしも当時の様々な背景を無視して、そのまま真似することをお勧めできませんが、今日の教会も、同じいのち、同じ使命を受け継いでいるのだということを覚えつつ、見ていく必要があると思っています。

 使徒3章は、生まれつき足のきかない男が、ペテロとヨハネによって癒される場面です。この男はいつも宮で憐れみを求めていました。彼はペテロとヨハネに施しを求めました。ペテロとヨハネは、その男をみつめて「私たちを見なさい」と言いました。男は何かもらえると思ってふたりに目を注ぎました。この「私たちを見なさい」ということばは、この施す者と施される者という従来の関係性を変えます。

 普通施す気のない人は施しを求める人と目を合わせないようにして、出来るだけ距離を置いて反対側を足早に通り過ぎてゆくものです。「良きサマリヤ人のたとえ」でも、サマリヤ人以外は反対側を通り過ぎています。

 そして施しを受ける側の興味も、どれだけ施してくれるかと言うことであって、誰が施してくれるかではありません。もともと足のきかない人の視界は、立って歩いている人たちよりも遙かに低いところを見ているものなのです。施しものを入れる器を見てはいても、あまり顔を見上げることは少ないと思います。しかし、「私たちを見なさい」と言われて注目しないわけには行きません。男は何をもらえるのだろうと思って注目します。まさか、「私たちを見なさい」と言っておきながら「はい、さようなら」ということはないでしょうから。

 この「目を注いだ」と翻訳された語は、原語では未完了型ですので、「その時だけぱっと見た」ではなく、「一定の時間じっと見つめていた」のだとわかります。男に注目させて期待させておきながら次のことばがすごいです。

 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい。」(使徒3:6)

男の求めているものはズバリ金銀です。しかしわざわざ声をかけて注目させておきながら、きっぱりそれはないと宣言しました。しかし、自分たちにあるものをあげようというのです。金銀ではないけれど、これほど自信たっぷりに紹介してくれるものは何だろうと当然期待は高まります。

 そこには、ユダヤ人を恐れて隠れていた弱々しい姿とはかけ離れた、強く雄々しい復活の証人として立つペテロとヨハネの姿があります。ペテロは十字架の場面で、どのような態度だったかを思い出してください。ペテロは姿を隠して様子をうかがいに行き、正体がばれてイエスさまとの関係を追求されたときには、完全に否定しました。

 ところが、ここでは「自分を見なさい」と言っています。主であるイエスを目の前から奪われたとき、すべてを失ったように思えましたが、今は自分が持っているものを上げようと提案しています。確かに金銀はありませんが確かに得たものがあります。
 
 ペテロは手紙の中で次のように語っています。

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。」(Ⅰペテロ1:3~4)

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18~19)

 ペテロは、自分たちが与った福音のもたらす祝福について知っていました。それは施しものを入れる器にはいるようなものではありませんでした。それは天にたくわえられた莫大な資産であって、とてつもない量であると同時に、金銀よりも遙かに上質のものなのです。そんな目に見えない約束を確信できた根拠はふたつあります。ひとつは、キリストの流された血の意味とその価値を知ったからです。もうひとつはよみがえられたイエスさまに会い、その十字架と復活を経て、自分も新しく生まれ、生きる望みを持つようになったのだと語っています。

 ここで足のきかない人が歩いたことは、福音のもたらす全体からすれば、取るに足りないちょっとした現れにすぎないとさえ言えるのです。ペテロやヨハネの中にも当然そのような認識やバランス感覚がありました。

 勿論、生まれつき足のきかない人が歩き出すことはすごいことです。通常は骨折でもして一ヶ月歩かなければ、筋肉が落ちて足の機能は低下してしまいます。リハビリなしで、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出すと言うことなどは不可能です。ましてや生まれつき歩いた経験のない人です。筋肉はおろか骨だって未成熟で、歩けるわけがないのです。人々が驚いたのは当然です。それでも、驚くべきことは、この生まれつき足のきかない人が歩けるようになったという奇跡ではなく、この後に語るペテロのメッセージの内容についてです。

ペテロはこう言っています。

「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(使徒3:12)

普通は驚くに決まっていることについて、ペテロは驚くなと言っています。それが驚くべき事ではないからではなく、もっと驚くべきことは別にあるからです。ペテロは自分たちが奇跡を起こせばどのようになるか予想はしていました。自分たちを注目するまなざしの置くに、さらなる奇跡や力を求める宗教的渇望や野心があるのを即座に見て取り、きっぱり否定したのです。この奇跡は、決して信じる者の力や信仰深さによるものではないのだとペテロは言いました。これは、何と重要な宣言でしょうか。今日、しるしや不思議を行ったり、それをもてはやす人たちは、この時のペテロとは全く正反対の事を言っています。ポイントは何のための誰のためのあかしなのか、どこにその栄光があるのかということです。

「アブラハム、イサク、ヤコブの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。」(使徒3:13)とペテロは語っています。そうです。神は、ご自分の選んだ、ご自分のただひとりの「しもべ」イエスにすべての栄光をお与えになりました。この方の栄光を誰も横取りすることは出来ません。このしもべということばは、原語ではパイスといいまして、イザヤが繰り返し語ったしもべにも同じ言葉が使われています。これは、イエスこそ、預言者達が待ち望みつつ語ってきた約束のメシアなのだと言っているのです。

そしてパイスという語は、欄外にもあるように「子」と訳せます、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)これが父の証でした。ぶどう園の例えでもあったように、「わたしの息子なら、敬ってくれるだろう」(マタイ21:37)と期待をこめて送った最後の使者でした。

 さらに、この方を「きよい、正しい方」(使徒2:14)として、紹介しています。この「きよい」と訳されている原語ハギオスは、カペナウムで追い出される悪霊が、イエスさまに対して「あなたは神の聖者です」(マルコ1:24、ルカ4:34)と言う場面で使われています。ここで、悪霊は「ナザレ人イエスはメシヤである」と認めています。面白いですね。認識と信仰は別なのです。

 もうひとつの表現として、「いのちの君」(使徒2:15)があります。このアルケーゴスということばには、欄外にもあるように「源」という意味があります。「創始者」よも訳され、ヘブル人への手紙の記者も特徴的に使っています。
「救いの創始者」(ヘブル2:10)「信仰の創始者」(ヘブル12:2)など極めて重要な聖句の中で用いられています。

 ペテロは自分たちの癒しの力に集まった注目を、イエスさまに向けようと話を続けます。ペテロはアブラハム、イサク、ヤコブから始まって、モーセやサムエルの例を出しながら、イエスさまの登場と十字架、復活が預言の成就であると同時に、人知をはるかに越えた神の計画と予知に基づいたものであることを伝えています。

 そして、イエスを受け入れることは、これまでの人生の延長にはなく、全く新しい始まりであることを強調しています。イエスを信じることは、「罪をぬぐいさっていただくために、悔い改めて神に立ち返ること」(使徒3:19)であり、「邪悪な生活から立ち返ること」(使徒3:26)なのだといっています。

そして、このメッセージを伝えるペテロ自身が、福音書のペテロとは全く別の次元にいるのがわかります。ペテロは「あなた方の信仰と希望は神にかかっている」(Ⅰペテロ1:21)と言っていますが、ペテロ自身が信仰のベースを自分自身ではなくイエスに置き換えたがゆえのことばです。

 最後にもう一度「私にないもの」と「私にあるもの」について考えてみます。お金がない、才能がない、時間がない、健康がない。いろいろ「ないもの」を数えてみればキリがないでしょう。何もかもそろっていて、「もれなくそろっていることに満足している人」なんていません。逆に相対的に見て満たされているように見える人ほど自分に対する評価が低く、人生への不満が大きかったりします。

この生まれながらに足のきかない人は、金銀を求めましたが、彼が求めなかった歩ける足を得ました。「神は彼の求めたものではなく彼にとって必要な物をお与えになったのだ」と書く信仰書もあります。こういう落とし方は人の宗教心を煽ります。しかし、本当にそうでしょうか。彼にとって一番必要なものは、歩けるようになることではありません。イエスさまを知ることです。

イエスさまとの出会いによって、病気や怪我が癒される人もいれば、そのままの人もいます。それは、その「人の力や信仰深さとは関係がない」のです。癒されることも、癒されないことも、すべてはイエスの御手の中にあります。癒しを中心に据え、癒す人や癒される人の力と信仰深さに結びつけるのは、全く聖書的ではありません。

御名を信じた人たちが持っているものは、癒したり癒されたりするよりも大きなものです。クリスチャンはすでに持っているものの価値をあまりにも少ししか知らないので、あたかも持っていないかのように、足りないかのように、訴えるのです。私たちは誰かに連れて行ってもらって美しの門にすわるべき存在ですか。違うでしょう。私たちもペテロやヨハネと同じく復活の証人なのです。

 福音とは、決して自分の何かが改良、改善されることではありません。十字架によって全ての罪が購われ、よみがえりのイエスさまに出会い、そのご人格に触れ、愛の中にとどまり、交わりの中にいることです。

 「だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」(Ⅱヨハネ9)
私たちが持っているものは、御父であり、御子です。

 ペテロやヨハネの大胆さはここに根拠があったのだと覚えてください。私たちは何を持っていませんか。ほとんど何も持っていません。持っていなくても結構。それでよいのです。私たちは何を持っていますか。主です。このことを知っていれば、必要な物は少しずつ与えられます。

しかしながら、すでに持っているものの価値に気が付かず、道ばたで物ごいするようなクリスチャンでいるなら、その日暮らしのそれなりの恵みにありつくだけです。ペテロやヨハネのように、主にあってもっと大胆にこの世をねり歩きたいものです。私たちが与えられている良き知らせは、それほど価値のあるメッセージなのです。

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コメント一覧

石ころ
メッセージへのコメントを感謝致します。
ラベンダーさま

私は、何時もsaltさんのメッセージを教会で聴いて、後に一字ずつブログと、頭と心にも入力します。それは私の恵みです。

本当に、キリスト者とはイエス様ご自身を頂いている者であることを、よくよく覚えて、その中でゆったりと主を喜んで生きていたいと思いました。

また、saltさんのメッセージは「天理カナン教会」のホームページから、音声で聞くことも出来ますのでよろしかったらどうぞ。
ラベンダー♪
こんにちは~
いつもsaltさんのメッセージをご紹介してくださり、
ありがとうございます。

今日は読んでいてドキリとしてしまいました。
最近、自分にはあれがない、これがないと、まるで
「ないこと探し」をして落ち込んでしまっていた私です。。

でも大切なことを思い出させていただきました。
そう、私は主を持っている!
こんなに大きな祝福を忘れてはなりませんね。
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