石ころ

土台




今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。
それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。(コロサイ1:22)


十字架のあがないによって私たちはすでに聖く、傷のなく、非難されるところのない者として、神様と和解させてくださったと書いてある。
キリスト者にとっての事実はみことばである。自分の感覚や自信や感情、または行いではない。
唯一信頼するべきが聖書の言葉みことばである。だから何度も読んで覚えて確認をする必要があるのだ。

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)
神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)


みことばという土台の上に踏みとどまっていなければ、どうしてこのようなことを信じることができるだろう・・。主に出会うために教会に行くのではない。教会は、キリストというかしらに堅く結びついた体の各器官として、成長を共に喜び味わう場所である。

キリスト者は何処で何をしているときも主の眼差しを覚えている者、主はどんな時も目を背けたりされない方である。十字架でイエスさまはそのために過去、現在、未来の罪をもあがなってくださったのである。

神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。(Ⅰヨハネ18)

ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。(コロサイ1:23)

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