アダムは神さまが創造されたすべての生き物に名を付けて、その名はすべて神さまのフィーリングに一致するものだった。
その聡さは神さまから受けたもの。完全なコミュニケーションを楽しみつつ、喜びの中でワクワクと働くように造られていた。
蛇は園の生き物のうち、一番の賢さでエバを誘惑した。蛇の質問は単純であった。
「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
気軽に反論したくなる巧妙な聞き方である。
その完全に何か足りないかのように付け加えたものは汚れであり、聖い神と共には住めなくなったのであった。その動機が神の創造に対する不信となりその愚かな行為は、神にかたちに完全に創造された人を変質させ、霊を劣化させて行くのであった。
蛇の「神は本当にそう言われたのか」というフレーズは、キリスト者にとっては、「それは人の言葉なのか、神のことばなのか」と事あるごとに問い返す大切な言葉である。
しかし、最初に蛇が使ったことを思い出して、ザラッとした感覚に耐えて問い返すことになる。この蛇は本当に嫌らしいのである。
女は「それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ」と言葉数を多くして、「その木から食べる時、あなたは必ず死ぬ」と言われた明確な死を曖昧にし、嫌なことを言葉数を多くして薄めたのである。
蛇はすかさず彼女の思いを汲んで「あなたがたは決して死にません」と命を保証をした。そんな嘘がまことしやかに届くのは、エバがそれを期待していたからである。
自分が死ぬものであることを知らない人はいない。しかし、健康を保証する・・若さを保証する・・身を守る備えの保証、等々「あなたは(ま~だまだ)死にません。これをすれば大丈夫です」と心を慰め恐れに寄り添うがごとき、エバを誘惑した蛇のまやかしは、命の時間切れまで続いて、神の備えである福音から目を背けさせ、救いのことばを遠ざけているのだ。